人間の素面にめぐりあつたやうに、直吉は、収容所での長い悪習を、ふつと後から平手をぴしりつと食つたやうな気がしてやめた。
「あんたも、私も不幸な奴だよ」
 継母の膝小僧を裾でかくしてやりながら、直吉は心から、自分を投げ出してみじめな奴だと自分に吐きかける。里子は、いまでは他人になつてしまつてゐる。どうせ、よりの戻る間柄ではないだらうけれど、里子の顔が馬鹿にみたくなつた。里子から来た手紙を拡げて、何度も文字を一つ一つ丁寧に読み返へした。里子を考へる事は一種の快楽に近い気持ちであつた。直吉は、手紙の上に顔を伏せて泣いた。泣いてゐると、淋しい幸福感でいつぱいになつてくる。ノボオシビルスクにゐた頃も、時々、かうした虚しい思ひに耽つた。[#「耽つた。」は底本では「耽つた、」]同じ収容所仲間で、華族の息子がゐたが、「どうも、人間つて奴は、この幸福を考へる事だけで、生きる望みをつないでゐるやうなもンだ」と云つてゐた。直吉は継母の泣いてゐる顔をぢつと眺めてゐたが、さつきの卑しい思ひを誘はれたいやらしさが、継母の顔を見てゐるうちに腹立たしくなつて来た。
 二三日してから、里子は本当に尋づねて来た。すつかりおもかげが変り、昔ながらの藪睨みには変りなかつたけれども、化粧しない顔は蒼ざめて生気がなかつた。何年逢はなかつたのだらう‥‥。それでも、初めて里子を見た時、直吉は、里子はこんなに美人だつたのかと、正視出来ない程のまばゆいものを感じた。隆吉も父もゐた。所在ないので、ラジオの漫才を聞いてゐた。囚人が檻の外の女を見てゐるやうに、皆のゐる前では、どうにもならない焦々しさだつた。秋の冷々した風が、トタンの屋根に軋んでゐる。
 里子の手土産の羊かんで茶を飲みながら、父は眼やにのたまつた光のない眼で、里子になるべく早く直吉と一緒になつてくれるように云つた。隆吉に気を兼ねての云ひぐさだつたのだらうが、直吉は、いゝ気持ちではなかつた。里子は金茶色のお召の矢絣の袷に、紅色の帯を締めてゐたが、白い襟もとをきつく合はせてゐる癖は今も昔と変らない。隆吉は羊かんを頬ばりながら、すぐ夜遊びに出て行つたが、父はぢいつとして意地悪く動かなかつたので、直吉は里子を送りかたがた外へ出て行つた。暗い石垣添ひの寺の処へ来ると、直吉は里子を抱き締めたが、直吉を素気なく払ひのけるやうにして、
「駄目よツ、もう駄目なのツ」
 と、き
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