。直吉は失望はしなかつたが、里子の不実を許せるかどうかは、逢つてみなければ判らないと思つた。継母は戻つて来た直吉に対して、何の記憶もないやうな白々しさで、はにかんで笑つた。焼け跡に建てた家は、寄せあつめの古材で、建築した小舎同然の家で、風が吹くと、銹びたトタン屋根は凄い音をたてて鳴つた。部屋の隅の一画に、継母は綿のはみ出た蒲団にくるまつて、終日黙つて節穴を睨めてゐた。体を起して、その節穴に指をつゝこんでぶつくさ云つてゐる時もある。寒いも暑いもないのだ。心にも皮膚にも人間の感覚はなくなつてゐた。ロボツトのやうな人間になり、たゞ、下の始末の時だけは、定められた処へ、行儀のいゝ猫のやうなしぐさで這つて行つた。食事は父がつくつてゐた。代書の権利はとつくに人に譲り、父は猫の額ほどの店に、信州から箒を取り寄せて売つてゐた。箒の外にも、素焼の魔法コンロや、束子のやうなものを少しばかり並べてゐた。生活費はほとんど隆吉の収入でまかなはれてゐる様子だつた。直吉は流刑から戻つて来た爽かさで、この狭い家にゆつくり手足をのばしたが、その爽かさは長い忍耐の崩壊したあとのすがすがしさでもあつた。漂流は終つたとは云へなかつたが、一応は、この現実から立ちあがつて行かなければならない。――隆吉が、時々白いパンを貰つて来る事がある。その白いパンを眺めて、直吉は肌の柔かいパンに鼻をつけて、突然うゝつと瞼に熱いものが突きあげた。パンは柔くて美味かつたが、食べながら、その白いパンを頑固に拒否してゐる、意地の悪い気持ちもあつた。――時には、夢で、ノボオシビルクスに引き戻されて怯える夜もあつたが、夢が覚めると、白いパンに向ふ時の厭な気持ちになるのは、心に重たいしこりがあるせゐであらうか。
直吉は、少しづつ自分を持てあまし気味になつてゐる家族の冷たさに気づいてきた。父も隆吉もいやによそよそしく直吉に向ふやうになつてゐたが、あんなに厭でたまらなかつた継母のたけよは、意識を失つてゐるせゐか、直吉に対しては淡々としてゐる。――直吉は戻つて一ヶ月ほどして、里子から千葉の里子の消息を聞くと[#「里子から千葉の里子の消息を聞くと」はママ]、返事を貰つた。直吉からは、簡単に復員して来た通知を、同時に出しておいたのだ。返事は仲々来なかつた。尋づねて行つては工合の悪いところの様子だつたので、直吉は我慢をして尋づねて行く事はしなかつ
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