枕を一つにして、暗がりで頬を差し寄せてゐた。里子につまらない世の中ねと云はれるまでもなく、直吉も亦、つくづく人の世の佗しさを感じてもゐるのだ。このまゝ歩いてみたところで、何処へ突き抜けて行ける当てもない。
朝、里子は死人のやうに蒼ざめた顔をして眠つてゐた。直吉は煙草を吸ひたくなり、腹這ひになつて、枕もとの煙草を取つて、吸ひつけたが、ぱさぱさと紙臭い匂ひがして、舌に煙草の味が乗らなかつた。時間も判らなかつたが、暗幕を透かしてにぶい光が部屋の中に縞になつて射してゐた。考へる事もなく、乾いた煙草を吸ひながら、呆んやり里子の寝顔を見てゐると、小鼻に白い膏の浮いた汗つぽい肌が、果物のやうにも見えた。心中をした兵隊のやうに、直吉は里子を連れ出して、二三日、気楽な旅に出てみたい気がしてゐた。何故ともなく、大輪の牡丹の咲いてゐる華麗な花畑が瞼のなかに浮いて見える。にぶい爆音がした。音を聞いただけで、直吉は飛行機の種類を聴き分ける事が出来た。ふつと瞼を開けて、里子が直吉の方へ寝返へりをして、「起きていらつしたの」と聞いた。陶器のやうに光つ顔[#「光つ顔」はママ]に、小さく羽音をたてて、蝿がうるさく飛び立つてゐる。――里子を連れ出して、誰もゐないところで、数日でも自由な生活をしてみたかつたが、配給暮しのなかに生きてゐる以上は、さうして食べるだけの自由さも与へられないと思ふと、直吉は苦笑してしまふのである。
「何を笑つてゐるの?」
「何でもない‥‥」
「だつて笑つたわよ」
「色々とをかしな事を考へてゐたンだ」
「どんな事‥‥」
「不忠不義の事を考へてゐたのさ。君を連れて逃げ出したいなンて思つてゐたのさ」
「まア、そンなに、私のこと好き? 逃げてもいゝわ‥‥」
直吉は、それから二月位は浅草に行く折もなかつた。金もなかつたが、仕事も段々激しくなり、工場は建物を増築して、学徒の勤労奉仕も大勢来るやうになつた。朝の工場の門に立つてゐると、まるで雪崩れのやうに、大群集が吸ひこまれて来る。一人々々が物々しい姿であつた。血液型と名前を書いた白布を胸につけた男女の群が、工場の門の中へコールタールの流れのやうに押しこまれて来る。カーキ色の星のマークのついた自動車が、ガソリンの匂ひを撒き散らして群集の真中を押し切つて、何台も工場へ這入つて来る。直吉は事務所の窓からかうした異状な景色を眺めながら、心の満た
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