お上りつてば‥‥」
里子は返事もしない。膝のたいこ焼きは、ごろりと畳へ転んだ。冨子は矢庭にたいこ焼きを掴んでがらりと硝子窓を開けると、そのたいこ焼きを物干の向ふへ、力いつぱい放り投げた。里子は吃驚して、また両手を顔にあててひいつと泣き出した。冨子はそのまゝ荒々しく階段を降りて行つた。波江は里子をなだめて、「素直に食べないから姉さん怒つたのよ。里子ちやんも頑固だねえ」と、針箱を片寄せて、里子の顔を覗き込んだ。軈て泣きやめた里子は、気まり悪さうに、素直に直吉の方へ向きなほつたが、冨子と違つて、案外色の白い少女だつた。切れ長の眼は、少しばかり藪睨みで、額が狭く、眉が濃かつた。鼻筋もとほつて、夜店の人形のやうな顔をしてゐる。
直吉は壁に凭れて、たいこ焼の御馳走にあづかりながら、波江の読んでゐた雑誌の頁をめくつてゐた。冨子は何処かへ出掛けたとみえて、階下で、誰かが呼んでゐるので、波江が大儀さうに降りて行つたが、客とみえて、カウンターでコツプを洗ふ音がした。
「君、たいこ焼食べろよ」
「ほしくないの」
「東京で何をするつもりで出て来たの?」
「芸者になるつもりで来たンです」
「ほう。‥‥芸者にね、君なら芸者になれるだらうが、そりやア、仲々だね。大変な事だぜ‥‥。下手をするとだまされつちまふよ。そんな世界は、色々な圧力があつて、身動きも出来なくなるンだ」
里子は、一人の男が、大人あつかひに話をしてくれるのが嬉しかつた。――その翌朝、直吉は里子と約束したとほりに、上野まで里子を送つて行つてやつた。冨子も、かへつてそれを喜んでくれてゐたので、直吉は里子も連れて、上野へ行き、秋の広小路の賑やかなところや、松坂屋などをぶらぶら歩いて、汽車に乗せてやつた。それ以来数年を、直吉は里子に逢ふ事もなく過ぎたのだ。――冨子は間もなく、新宿の遊廓に身を沈めて、冨勇と名乗つて女郎に出てしまつた。直吉はその頃、大学をやめて、牛込の榎本印刷の営業部の事務の方へ勤めを持つてゐたが、或日、波江に逢つて、冨子の落ちつき先きを知ると、直吉は友人を誘つて、初めて新宿遊廓に遊びに行つた。波江に聞いた浮舟楼を探して、入口の写真のなかから冨勇の姿を見つけ出した時は、沈むところへ沈んだものだと直吉は思つた。
戦争は少しづつ喘息病みのやうなしつこさと変り、街を歩いてみても、カーキ色が多くなり軍人や兵隊が多く歩くやうに
前へ
次へ
全42ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング