で、そばへくつゝいて歩く事も出来ず、わざと、怒つた様子で里子と歩調をあはせてゐる。里子は暫く黙つて歩いてゐたが、肩掛けで唇をかくすやうにして、
「仕事みつかりましたの」
と訊いた。直吉は自然に里子のそばへ寄つて行き、ぽつんと、「まだ、駄目だ」と云つた。一度、自分の就職について色々と話したかつたし、また、何時もの[#「何時もの」は底本では「何時も」]やうに、味気ない別れは厭だつたので、
「今夜、何処か、宿屋へ泊れないのか」
と、尋づねてみた。里子は暫く返事もしなかつたが、明るい電気屋の前まで来ると、小さい声で「泊つてもいゝわ」と云つた。直吉は吃驚した様子で「家へ断わらなくてもいゝのか」と聞いた。宿屋へ行つて、うまく電話をかければいゝでせうと、里子はぷつゝりと黙つたまゝ歩いてゐる。見覚えのない紫お召の羽織を着てゐた。時々直吉の手に触れる、お召の感触が冷たかつた。直吉は宿屋へ泊ると云つた里子の、今夜の心境が不思議だつたが、別にその気持ちの変化を聞きたゞす気にもなれなくて、賑やかな通りへ出ると、自分で、宿屋を物色して歩いた。何時来ても知らない街を歩いてゐる気がして、直吉は煙草屋の店に立ち寄つて宿屋を聞いてみたりした。煙草屋の硝子瓶に、光やピースがぎつしりと這入つてゐるのを見て、直吉は、戦争中の、煙草の乏しかつた時代を思ひ出してゐる。光を二つ買つた。煙草屋ではマッチを一つ添へてくれた。世の中がすつかり変化してゐる。直吉はかへつて歴史のうつりかはりを感じた。街の店先には、何処にも防空壕が掘られて、こんもりした防空壕の築地の上に、菜つぱや、コスモスの植つてゐた時代がかつてあつた。街路樹は薪に切られ、家々の軒先きには、トビ口や、火叩きや、砂袋がかならず置いてあつたものだ。男も女もけじめのつかない素朴な姿になり、乏しさによく耐へて生きてゐた。大豆や雑穀の配給を受けて、辛うじて露命をつないでゐた戦争中のしこりが、直吉には、煙草屋の店先きでふつと息苦しく回想された。灯火や、硝子窓に黒い布がかぶさつてゐたのも、つい三四年前の事だ。さうした暮しの乏しい祖国を離れて、里子のつくつてくれた、千人針をふところにして、直吉が出征して行つたのは昭和十九年の秋であつた。
直吉が此のあたりに旅館はないかと聞きかけると、先きに歩いてゐた里子が後返へりして来た。中学生のやうな店番が、二軒先きの路地のなか
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