に語れたならば「どうでせうか、少しばかり、貴方とお喋りをしたいのですが‥‥」と話してみたかつた。肉づきのしまつた腰から脚へかけての洋袴は皺一つなかつた。長い脚を柵の下すれすれにぶらさげてゐる。直吉はみすぼらしい自分の姿が佗しかつた。倚りかゝつてゐる木柵に、二人は何の関係もない並びかたでゐたが、かつて、兵隊だつた直吉は、隣りのアメリカ兵に対して、無関心ではゐられなかつた。率直で感じのいゝ兵隊のそばに立つてゐる事だけで、直吉は対立的な気持ちにはなれない。雑沓する一つの場所で、暫く、直吉は、心に浸みるやうな孤独を味つてゐた。人格とか、威厳とか、何一つ調和しない敗者の生活が、眼の前に渦をなして、ごみごみと雑沓の中に流れてゐる。平板な敗者の安心感だけで、どの東京人の顔も、懐疑的な表情で歩いてゐるものはない。嘔吐をしたあとのすがすがしさである。――さつきの河底に[#「さつきの河底に」は底本では「さつきの 河底に」]浮いてゐた広告マンの勇気が、直吉には、馬鹿に羨しかつた。我一人行くの勇気を持つた、あの広告マンに対して、直吉は、あすこまで行けば、気楽なのではないかと思つた。その日暮しの連続で生活してゐた事に、直吉は、やりきれなくなつてゐる。一寸したきつかけで、かうした兵隊と、仲良しになつて、極くさゝやかな幸運をもたらせてくれないものかと、空想もしてみる。兵隊は友人に出逢つたのか、大きい声を挙げて、身軽るに木柵から腰を降ろすと、まつすぐな歩き方で、PXの建物の方へ足早やに行つた。
 直吉も木柵を離れ、ゆつくりした歩きかたで、数寄屋橋の方へ仕方なく戻つた。

 直吉が山の手線で、巣鴨の駅へ降りた時は四囲は[#「時は四囲は」は底本では「時は 四囲は」]とつぷり暮れてゐた。待ち合せる場所まで行つてみたが、里子はまだ出て来てゐない。こゝはまた馬鹿に淋しい町通りである。寒い夜風が吹きつけてゐたが、深く呼吸をしてゐると、春らしくもある。沈丁花の垣根が匂つてゐる。ラジオの騒々しい対話が聴える。電信柱と、産婆の赤い灯とが向きあつてゐる。そこへ立つたびに、直吉は不愉快であつた。湯殿の煙突が火の粉を噴き、台所で肉を焼く匂ひがしたり、子供の甘つたれた声がした。白い石の門柱の前には、高級車が停つてゐる。沈丁花の垣根に添つた溝には、米を洗つた白い水が、溢れて流れてゐる。平和なその家の賑やかさが、直吉には妬まし
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