に広げると、もう雨雲が破れて、雨脚が額に痛くなつた。
「オヽララ」
男は黒いレンコートを寒子の頭からかけると、体を抱くやうにして、橋の下へ逃げ込んだ。
「驚いた‥‥」
「大丈夫、すぐ通つて行く――パリの雨だけは僕は大好きだ」
二人は橋の下の下水管の上に腰をかけたまゝ石畳をバンジョウのやうにかきならす雨脚を眺めてゐた。
仔犬がビショビショになつて、二人の足の下にうづくまる。
河の流れが、急に乳色になつて早くなる。
「冷たい?」
不意に思ひがけない親切な言葉にとまどひして、寒子がフッと振り向くと、腕木のやうな大きな掌が寒子の肩を抱き、男の唇は寒子の雨に濡れた唇を封じてゐた。
暫時は、四ツの唇を静かに心に感じあつた。寒子は、長い間ほつて置かれた赤ん坊のやうに泪があふれると、胸を突きあげるやうに声が出た。
沢山、色々な言葉が洪水のやうになつてあふれるが、それは皆東洋の故郷の言葉だ。
二人が唇を離した時、もう雨脚は大分止んで、逃げ込んで来てゐた釣りの少年も、また河沿ひに歩いて行つた。
二人は、只沈黙つてゐた。沈黙つて、この感情の空気を吸ふより仕方がない。
雨が通り過ぎて行くと、マロニヱの並木は、すぼんだ傘のやうに、パツと水を切つて前よりもいつそう鮮やかに緑が美しくなる。
「これから何処へ行くの?」
男は先に歩いてゐた。
「これから、――死にゝ行くのさ」
「死にゝ行くウ?」
「うん、――これだ!」
男はポケットから、黒いピストルの口を出して見せた。
10[#「10」は縦中横] 寒子は気が狂ひさうであつた。
温室咲きの薔薇のやうに美しくそだつて来た寒子の体内には、火がついたキリンが走りまはつてゐる。
寝台に起きあがつて、何度|巴里夕刊《パリ・ソアル》を引つくり返して見ても、やつぱりあの男の顔が出てゐる。今朝、あの男と雨宿りしたばかりなのに、「青色ロシヤ青年首相暗殺」この大きな表題の下には、自ら赤白を否定して、青色と名乗る青年の写真が出てゐた。
「まあ、あの人だ、あの人だわ――」
寒子は空気を抱きしめて泣いた。
「死にに行くのだよ」
さう云つて気軽に別れたあの男が、絵の展覧会場にゐるフランス首相のそば近くに寄つて、ピストルを放たうとは思ひもよらない。
寒子は、坐つても立つてもられない気持であつた。
「さうだ! ミツシヱルの家に行けば、ロロの居所も分るだらうし、何か様子が知れよう」
寒子は自動車の走りやうがおそいと云つては、コツコツ硝子戸を叩いて、運転手を厭がらせた。
――あの長い白暮だ。
九時ごろであらう閉門の鐘が寺の塔から流れて来る。
自動車から降りると、寒子は「ピュウピュ、ピュウピュ」と口笛でミツシヱルを呼んでみたが、何の反響もない。
門番《コンシヱルジヱ》は、「今朝から降りて来ないよ」とぶつきら棒に云ふきりだ。
「別に病気でもないの?」
「貧乏が病気さね、――若い男とゐるなら、その貧乏もおかまひなしだらうが、俺んとこだつて、空気の上に家を建てゝゐるんぢやないんだから、いゝかげんしびれが切れるよ」
相変らず、ミツシヱルも困つてゐるんだ。それなら、それのやうに、何故借りに来ないのだらうか薄暗がりを手探りで、一段一段上に上つて行くことが寒子には切なかつた。
低い天井裏の廊下に、やつと燐寸をすつて番号を探した。
「ミツシヱル!」
「‥‥‥‥」
「|今晩は《ボンソアール》!」
「‥‥‥‥」
「|今晩は《ボンソアール》!」
「ウ‥‥‥‥」
「ミツシヱル! 私よ、寒子よ、一寸開けて!」
「‥‥‥‥」
「居るんぢやないの、只の事で来たんぢやないから開けてツ!」
「ウ‥‥‥‥」
「|今晩は《ボンソアール》! ミッシヱル」
寒子は、向ふのかすかな唸り声と対かうして根気を出した。
扉は固く閉つてゐる。
「門番《コンシヱルジヱ》ぢやないのよツ」
「ウ‥‥‥‥」
つひには、寒子は狂人のやうに扉を叩き出した。すると、思ひがけなく隣室が開いて銀色の頭髪をした美しい女が、「マドマゼール」と小声で寒子をまねいた。
「あの‥‥どうも変なんですよ、先程から、ガス臭くて仕方がないんですが、お友達だつたら立会つて戴いて、門番に開けて貰ひませうか」
さういはれると、妙に廊下がガス臭かつた。少し大きな声を続けると汗ばんで、フラフラとたふれさうになる。
「ねえ、さうでせう‥‥」
寒子と銀髪の女は、ミツシヱルの扉に鼻をつけて匂ひをかいだ。
「|今晩は《ボンソアール》!」
「|今晩は《ボンソアール》マダム!」
「ウ‥‥ウ‥‥」
唸つてゐる人の声だ。ミツシヱルの声だ。寒子も銀髪の女も、七階上から、門番《コンシヱルジヱ》のところまで、どう転び降りたか分らなかつた。門番《コンシヱルジヱ》が鍵束を持つて七階上に走る時、寒子は頭の中の血脈がピンと音をたてゝ切れたやうに感じられた。
11[#「11」は縦中横] 小さい三角屋根の下には、ミツシヱルが寝台の上に眠つてゐた。
洗面台の下には、かつて踊場で見た事のあるあの美しい青年がたふれてゐる。
「馬鹿者が‥‥全く恥知らずがツ!」
一寸の怒りもすぐ第六感をおびやかして、体中をブルブルさせさうな門番《コンシヱルジヱ》は窓といふ窓を開けると、かう云つて怒鳴り散らした。階下からも人達が愕いて上つて来る。
「ミツシヱル! 私よ、寒子よ!」
だが、一足おくれたのであらうか、あんなに朗らかだつたミツシヱルも青年も息を吹き返さなかつた。
部屋の中には、かつてロロのつかつた水ブラシと、気味の悪い人形の首がぶらさがつてゐるきりで只美しく清潔であつたのは、二人の体と、二足の靴だけであつた。壁の写真もいつか取りはらはれて、どんなに、一ヶ月の間、ミツシヱルの生活に苦悩があつたのか、あまりに部屋の中は何もなさすぎてゐた。
「何時になつたら敷物のある、花束のある、紅茶茶碗のある部屋が持てるのかしら」と云つてゐたミツシヱル!
寒子は巡査の来ない間に、街の通へ、あんなにミツシヱルの欲しがつてゐた花束を買ひに出た。
だが白暮はつひに物思ひのまゝ暗くなつてしまつてゐる。どの店も閉つてゐた。花屋の硝子戸の中には高洒[#「高洒」はママ]な、薔薇や蘭の花が並んでゐるが、こゝも網戸が降りてゐた。
寒子は、妙に胸の薄さを感じる。
静物に買つた、薔薇の一束を部屋から持ち出すと、まるで泣いた後のやうな涼しい気持になつて街に急いだ。
「皆々、孤独人なのだ、ミツシヱルだつて、ロロだつて、あの男だつて、――」
ピストルを射つたあの男は、ピストルを射つまで、心のやり場に困つたのに違ひない。その心のやり場に、ひととき私の唇を利用したところで、何でとがめる事があらう。まして泣いて切ながる必要もない。楽しみに私は私で絵を描けばいゝぢやないか、寒子は、何気なく眉をあげた。二日間も部屋に匂つた白薔薇がハラ/\と蝶々のやうに舗道にあふれて散つた。
[#ここから3字下げ]
雨は真珠か
夜明の霧か
それとも私の
しのびなき
[#ここで字下げ終わり]
ミツシヱルを愛して、雨の唄を教へた東洋の男も、今ごろは百号大のカンヴァスを広げて、妻君の裸体をでも描いてゐるのかも知れない。
一切は孤独なしのびなき[#「しのびなき」に傍点]なのだ。
寒子は白皮の手袋をはづして心の葬礼にふさはしい青色のタクシーを呼び止めてゐた。
底本:「林芙美子全集 第十五巻」文泉堂出版
1977(昭和52)年4月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※片仮名の拗音、促音を小書きするか否かは、底本通りとしました。
※疑問点の修正に当たっては、「清貧の書」改造社、1933(昭和8)年5月19日発行を参照しました。
入力:林 幸雄
校正:花田泰治郎
2005年8月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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