、パンテオン寺の天蓋が、まるでキリコの描く機械人形の頭のやうに気味悪く見えたりした。
 不意に、ロロも何か思ひ出してゐたのか、
「パリつて、色気の多い街ね、部屋の中にゐると、あんなに心が醗酵して来るのに、歩いてゐると一直線に転落するまではしやぎたくなるの」
 ミツシヱルも寒子も同感であつた。
 この煽情的なものは、パリの街を吹く風の中に流れてゐるのだらうか――街角を曲るたび、幾組かの接吻を見た。
 踊場の中はもうかなり酸つぱくなつてゐた。臍から上をむき出しにしたイタリー女が二、三人の水兵と順ぐりに踊りまはつてゐる。寒子だけ椅子につくと、あとの二人の女は、もう腕を組みあつて、外套のまゝ踊の中にまぎれこんだ。背が高くて、コサックの帽子を被つたミツシヱルの姿は、此の踊場でもめだつて美しく見えて、二、三人のソルボンヌ大学生は、ミツシヱルの組にばかり眼を追つてゐた。

 音楽が途切れると、寒子の註文したビールを、ミツシヱルとロロは立ち呑みしながら「随分金なしが多いぢやないの」とさゝやき笑ひしてゐた。
 退屈屋の寒子も、何時かミツシヱルやロロを相手に踊り出してゐた。「踊つて何も彼も忘れてゐる気持つて素的だと思はない。こんな気持ちの時、何か大きい事が出来ると思ふのよ」ロロは踊りながら、時々寒子の胸の菫の花束に口づけしてゐた。

 ロロと、何度目かの踊りを踊つた時であつた。
「ホラ! ミツシヱルは学生を馬鹿にしてゐる癖に、学生につかまつたぢやないの‥‥」
 入口に近い卓子に、ミツシヱルは何か興あり気に笑ひながら男と話してゐた。――男はまだ学生らしく、どこか寸詰[#「寸詰」は底本では「寸結」]りな背広姿で、始終白い歯を見せて笑つてゐた。品の悪い顔ではない北国の男であらう、ヒフが蒼く澄んで、鼠色のシャツが非常によく似合つて[#「似合つて」は底本では「以合つて」]見えた。
 やがて間もなく、ミツシヱルはその青年と手を組みながら踊の中へはひつて来ると、ロロと寒子の肩をつきながら、口早に紹介して過ぎて行つた。
「一寸、私のフィアンセにめぐりあつてよ、あの女達は、私の兄弟《フレール》――あとでお祝ひしませうよ」
 ロロはロロで「すさまじいものだ」と寒子の手を一寸握りながらクツクツと笑ひこけてゐる。
「さすが、ミツシヱルの好みだけあつて、美しいわね、一寸やけるわ」
 ちよいちよいロロは寒子の肩越しに、ミツシヱルにウインクして見せながら、茶目ツ子らしく舌を出してゐた。

 6 旅行案内所では急に夏の旅行パンフレットを店先に並べ出した。
 女の姿もめだつて美しく、海色の流行色が、繁つたマロニヱの木の下を、まるで魚のやうに歩いてゐる。キャフェのテラスには、だんだら縞の海岸傘が一時にパツと開いて、パリは、高山のお花畑になつてしまつた。

 寒子は、ミツシヱル達に別れたまゝ一ヶ月も静物と暮らしてしまつたのだが、静物も一ヶ月続くともう埃つぽさを感じ、面のない動きのない、音のない材料に、すつかりヘトヘトに参つてしまつた。
「嫌になつてしまふ、ミツシヱルでも雇つて、コスチウムを描かうかしら、それとも‥‥」
 そんなことを考へてゐると、急に風景の緑がパレットに写つて、寒子は心の中に落ちつきを失つてしまつた。
 周章て地図をひつくり返すと、風景のよささうな田舎への汽車をしらべて見た。
「フォンテヌブローの森も悪くはない、それともコースを伸ばして、ブルタァニュの海辺へ行つてみようかしら‥‥」
 高いモデルを使つて、始終動かれて焦々するより、風景を描かう――寒子は靴[#「靴」はママ]をあけて、気早にもうパンタロンやシュウミイズを投げ込んで[#「込んで」は底本では「返んで」]ゐた。
「今日はア」
 扉の外で、コツコツ誰かノックする者がゐる。
「誰《キヱラア》?」
「ロロよ」
 寒子は、驚いて扉をあけて「まあ、思ひがけない、お客様ね」とロロの手を握りしめた。
「気がむいたの?」
「えゝ気がむきすぎたの‥‥」
「まあ、こはいぞオ」
「そのこはい御用で来たのよ」
「こはい御用?」
「うん」
「ふん‥‥」
「水をいつぱい呑まして」
「レモナードが少しあるわ」
「なら、少し――親切ね」
「だつてこゝは紳士《ムッシュ》がゐないもの」
「だから、変りになの‥‥東洋の男も女も出来が違つてゐるつて」
「ミツシヱルのおしやべりがいつたの」
「感心してゐた」
 日の光や、灯火の下で見たロロの甘さが少しもこゝでは見られなかつた。――夏だといふのにロロの額は雪のやうに冷たげで、ベレーからはみ出た灰色つぽい髪の毛はひどく生活の佗しさを匂はせてゐた。
「私、反ジャンヌダルクの役割を持つてゐるんですがね、分りますか?」

 7 十四区のゴミゴミした城街《シャトウ》に、パリ共産党の本部があつた。
 外側から見ると、まるで日本の田舎に見る日曜学校のやうな造りで、通行人は、たまたまこのみすぼらしい建物を忘れて通つてしまふ。――昼間でさへ忘れられがちな、この本部は、夜になると、誰がこはしたのか――家の前の街灯はいつも灯火がはひらないので、ほとんど誰の注意も惹かないで過ぎる。
 そのやうな共産党本部なのに――今日は明明と灯火がもれて、天使のやうにマントを羽織つた巡査が二人、暗い地下室から、帽子をかぶらない女の腕を握つて通へ出て来た。
 灯火のついた二階の硝子窓はいつぱいに開いて、党員の残留組なのであらう。たくみなロシヤ語でこの無帽で引かれて行く一人の女に、拍手をおくり、歌をうたつて街角に折れるまで、狂人のやうなさわぎを止めなかつた。門で見張りをしてゐる巡査も時々二階を見上げながら笑つてゐるだけで、暫時すると、前よりもいつそう静かな暗が来た。
 寒子は、ロロから託された品物をパンタロンと一緒に鞄の中へ入れると、プラス・サン・ミツシヱルの燕街へ自動車を走らせた。
 星が美しく降るやうであつた。
 酔つぱらつた学生が伸びあがつては、自分のベレーを街灯の頭へ引つかけようとしてゐた。寒子はその街灯の前で自動車を降りるとアパッシュの門番のゐる、牢屋のキャバレーの中へ、赤いハンカチの男に案内をして貰つた。
 蜜柑[#「蜜柑」は底本では「密柑」]箱のやうな舞台の上では、十二三の娘の子が、人参のやうな長靴をはいて、ビギン、ビギンといふ踊ををどつてゐた。
 ギターと風琴が石の天井にコダマして、まるで水の底のやうに涼しい音をしてゐたし、女達も男達もいゝかげん煙草のもやの中に酔つぱらつてゐた。
 顔の長い顎髭の男、これが寒子のさがす男だ。――だがすぐ寒子の眼の中に、その男の顔は笑ひかけてゐた。カンテラの下の卓子《テーブル》に眠つたやうに凭れて、梅の実のはひつたカクテルを呑んでゐる。
 少しの間、一ツの卓子に沈黙つて坐りあつてゐた。――だがフッと思ひついて寒子が煙草を出すと眠つてゐたやうな、髭の男は、周章てブリッケの火を寒子の煙草につけてくれた。
 それが機会なのだ。
 寒子は別れたロロにそんな何でもない役割を課せられてゐたのであつた。
「有難う! ロロは国外追放になりましたよ」
 寒子から、一つの書類束を受け取ると、髭の男は冷たく美しい眼を伏せた。
「ロロはフランス人ぢやないんですか?」
「ヱストニヤ生れの混血児ですよ」
「まあ、ヱストニヤ、――さうですか」
「三四年たつたら、また逆もどりして来ますよ、――絵を描いて楽しみですか‥‥」
「楽しみ‥‥」
 寒子は、心の中の埃を叩かれたやうで沈黙つてしまつた。
 髭の男は、梅の実のカクテルをアンコールして寒子には甘いサンザノを註文してくれた。
「日本の××××は、どんな風なのです。貴方の眼から見た事だけで結構です」
 だが、ブルジョアの娘として伸々とそだつて来た寒子には、そんな風な事には関心してゐなかつた。
「どんな風つて、新聞で読むだけですのよ」
 すると、髭の男は、不意に話題を変へて、
「日本まで旅費はどのくらゐかゝりますか、勿論船ですが‥‥」
「さあ、二等で七〇パウンド位でせうかしら‥‥」
「二等でね、中々かゝりますね、――貴方は、中々おしあはせなお身分ですよ、ロロから聞くと、水を吸う苔のやうなひとだと聞きました。色々なものを勉強して下さい。絵は誰のが好きですか――僕も絵は好きで絵の理論はうまいのですが、中々ね」

 二人の会合を誰も知らない。
 寒子は、違つた世界をのぞいて、その夜はひどく、ドウキがはげしく踊つてゐた。

 8 パレットから緑を連想し、地図の上から、汽車をひろはふとした熱情もいつか失せて、寒子はまた何日か埃の中の静物の上に摸索を続けさせてゐた。
 ロロもいまは国外追放になつてしまつてゐるし、ミツシヱルも、他のモデルの風説では、すつかりソルボンヌの文科大学生と恋仲になつてしまつてゐると云ふ事であるし、――寒子は孤独なまゝに、いつか、自分の描く絵にギモンを持つて来た。
「こんな花だの、林檎だの描いていつたい何になるんだらう――何の役に立つのだらう」
 筆をポキ/\折つてしまひたかつた。
 何度となく故郷へ帰りたいと手紙を出しても、家から来るたよりは、折角パリへ出かけたのだから、仕上げて帰つて来たらといつて来るばかりであつた。「何を仕上げるのだらう――」
 パリにゐる日本人の絵描きは、大方寒子のことをうらやましがつてゐた。
 寒子もそれに甘へてひどく長閑に、気まゝに絵を描くことに精進してゐたのだが、牢屋のキャバレーで、眼の美しい髭の男を見てから、退屈屋の寒子が、余計海の上の雲のやうに呆んやり考へる日が多くなつた。
 たまに気が向くと十四区の城街へ足をやつてみるのだが、共産党の本部の扉は、いつでも閉つたまゝで人声が聞えない。
 ミツシヱルのアパルトも幾度か尋ねてはみたが、その都度留守で、会へない時が多かつた。たまに会つても、いつもそは/\と急がし気で、顔中がひどく武装して見えた。
「どうしたのだらう――」
 かうなると、妙に自分が金持ちの、のらくら娘に思へて、寒子は自分で自分の気持に弱り果てた。
 七月の革命祭にはお互にフィアンセを見つけてヒロウしようなぞと笑つた踊りの夜も過ぎて寒子にはなまあたゝかい無為の日が続く。

 まるで悪病みたいに静物にとりつかれて――さう開きなほると、寒子は方向転換に、毎日カルトンをさげてセーヌの石畳の上にスケッチに出かけた。
「パリへ来て、こんな気持の堆積が自分を神経衰弱にするのだ」
 さう思つて街を見ると、リオンの停車場でひと目見たパリの印象がボヤボヤと崩れて、最もビジネス的な風景になつて来る。
 寒子は胸を張つていつぱい空気を吸つた。
 両足を男の子のやうにふんばらして、カルトンを持ちあげた。
 眼を細めるとサン・ミツシヱル橋も樹も建物も生々と美しかつた。只黒いコンテの心臓から聴覚につたはるパリの姿を描かふ、私の仕事はそれでいゝのだわ、私を革命家にするのなら、もつと不遇な家に生れさせるといゝ。私は一年も二年もつかひきれない程の財産家に生れてゐるのだもの、何を好んで美しいものゝ無意義を感じなければならないのだらう、「楽しみですか?」と問はれた場合、はつきりと、大きな声で、「大変楽しみです」といふやうにしよう――。

 9 「|今日は《ボンジュール》!」
 眼鏡型の橋を描きかけてゐた時であつた。寒子の背を叩く白い大きな掌があつた。愕いて振り向いた寒子の眼の上に、あの澄んだ美しい髭の男があつた。
 だが、髭はもう綺麗に取り去られて、青年に近い美しさだ。
「まあ、しばらく‥‥」
「橋の上から貴女がよく見えた、――相変らずお楽しみですね」
「楽しみ‥‥」
 あんなに威張つて、「楽しみに描いてゐる」と云ふ言葉も、――また泡のやうに此男の前では消えてしまつたではないか。
 で、寒子はわざと話題を変へてロロはと聞くと、男は、笑つて、早い三、四年で、もうロロは巴里の屋根の下で眠つてるよと答へた。
 ものぐさなロロが、もうパリにはひりこんで、パリの街のどこかで眠つてゐる。――

 雨がパラパラと鼻の頭にあたつた。
 風が気早に、マロニヱの繁みを雨傘のやう
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