寒子は痛いほど頭を上に向けてミツシヱルの硝子窓に口笛を吹くと、見えない屋根上の窓からも「ピュウピュピュウピュ」と口笛で答へる。
 石畳がひいやりとして気持がいゝのか、猫族の匂ひがして、何か黒い生物がモゴモゴと石道を這つてゐた。
「|今晩は《ボンソアール》!」
「元気《サバ》なの?」
「ウイ、大元気《サバ・ビヤン》よ!」
 ミツシヱルは、スパニシオルの人形のやうに、頭に黒いレースをかけて、蜜柑色[#「蜜柑色」は底本では「密柑色」]のやうなパンタロンをはいてゐた。
 彼女の腕はむき出しのまゝ汗ばんで、夜のせゐか、ひどくミツシヱルの身体がフクイクと匂つてゐる。

 3 部屋の中には、十八ばかりの女が寝台の上にひつくり返つて鼻唄をうたつてゐた。
 白い壁には、カサ/\した人形の首がいくつもさがつて、束子のやうに黒い影をつくつてゐる。
 その寝台の女は、空色のピジャマひとつで、脚はむき出しのまゝ床の上にずりおとしてゐた。
「|今晩わ《ボンソアール》!」
 そつけない声で、ピジャマの女は首をそつと持ちあげた。
 額の非常に美しい娘で、スペイン式なミツシヱルの温かさにくらべて、これはまた北国風な空疎な冷たい声を持つてゐた。
「私、今朝から御飯食べてないのよ‥‥」
 寒子がまだ半ゴートも脱がない先に、ミツシヱルは、小さい寒子の肩に手を置いてかう云つた。
「ねえ、少し下さいな」
 毎度の事なので、寒子は要領よく十フラン札一枚ポケットから抜いて卓子の上におくと、まるで子供のやうにミツシヱルは寒子の頬に口づけて、トレ・ジャンテイを振りまはしてゐた。
 空気のせゐなのか、部屋の中が甘ずつぽく匂つて、天窓には月が射してゐた。
なゝめになつた白い壁には、男の写真がいくつも飾つてあつた。
 遠くから見ると、まるで動物の写真のやうに見えて、寒子は心の中で一寸子供つぽく苦笑してしまつた。
 十フランの金を持つたミツシヱルはまるでゼンマイに弾ねられた仔犬のやうに、昇降機《アツサンスウル》のない石の段々を、木魚のやうな音をたてゝ降りて行つた。
 娘と寒子と二人きりになると、白々と体の中を風が吹き抜けるやうな静けさにもどる。――すると、娘は鼻唄を止めて、白い腕を伸ばすと、枕元のスウヰッチを捻つて電気をつけた。
 取りとめもなく呆やりとしてゐた寒子は、この小さい家根裏の部屋に、月の光が射してゐたので、灯火はとつくについてゐたのだらう[#「ゐたのだらう」は底本は「ゐたのだろう」]とも思つてゐたに違ひない。
「オヤ、電気ついてゐなかつたの――随分いゝお月様だつたのねえ」
 灯火の流れは、暫時は女の顔を果実のやうに美しく照らしてゐた。
「えゝ随分いゝお月様でしたわ、もう五時間もあの天窓にぶらさがつてゝくれるので、ミツシヱルと随分色んな空想したんですよ、ミツシヱルは長い事卵子を食べないので、卵子の事ばかり云つてゐるし、私はまるで、金貨のやうだつて思つたんです」
「今日はミツシヱルはモデルにまはらないの‥‥」
「えゝ廻つたところで、一週間に五時間ぐらゐぢや、歩かないで寝てた方がいゝわ、とても、このパリもモデルが多くて、――今ぢや淫売とモデル兼業の女も多いし、とてもとても食つて行けさうもないの」
 女は退屈さうに長い十本の指を灰色に近い金髪の頭の中に入れてゴホンゴホン咳をしだした。
 体のどこかに病気の巣食つてゐるやうな透き通つた女だ。――寒子は沈黙つて立ち上ると、部屋の隅に、埃だらけになつてゐる蓄音機の蓋をあけて、キイコキイコ捻をまはした。

 4 「私、道で食べ食べ来ちやつたわ」
 ミツシヱルの手には半分になつた長いパンと、小さな包み紙があつた。
 包みの中からは、トマトの酢漬や鶏肉や、紅いうで卵子なぞが出た。
「随分御馳走でせう、――さあ、ロロおあがりよ」
 一|法《フラン》いくらのつり銭を卓子に置くと、ミツシヱルと、寝台のロロと云ふ女は、まるで水鳥のやうにせはし気にパンを頬ばつた。
「あゝ眼が見えなくなりさう、あまり美味しくて、昨日、キャフェ一杯に三日月パン一ツ食べたきりなのよ、それにロロはロロで、好きなあのひとと喧嘩しちやつて――」
 寒子は、女達の食べてゐる姿をあまり美しいとは思はない。蚕の市場[#「蚕の市場」はママ]のやうな、破れた風琴のレコードを聞きながら、沈黙つて女達の話を聞いてゐた。
「ミツシヱル、私、食べる事も退屈だわ」
「まあ、冗談おつしやい、あんなにお腹を空かしてたじやないのよウ」
「お腹が空くと云ふ事と、食べると云ふ事は別よ」
「厭なひと、同じだわ、――貴女も、寒子とよく似て退屈屋さんだわね、私達やアいまでこそ食へないけれど、明日の日には、どんなエトランゼがみつからないともかぎらないぢやないのよウ」
 ミツシヱルは思ひ出したやうに歪んだ鏡の前に立つて、
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