瑪瑙盤
林芙美子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)門番《コンゼルジエ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|小さい《プチツト》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定)
(例)しのびなき[#「しのびなき」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)カサ/\した
−−
1 ミツシヱルは魚ばかり食べたがる女であつた。
魚屋の前を通ると、牡蛎籠の上に一列に並んでゐるレモンの粒々に、鼻をクンクンさせたり鮫の白い切り口を、何時までも指で押してみたりしては買へもせぬ癖に、何か口の中でブツブツものをいひながら、立ちつくしてゐることがあつた。
ミツシヱルは南フランスの生れで、髪は南国風に黒つぽい色をしてゐる。
「|小さい《プチット》|お嬢さん《マドモアゼル》! 私しのびなき[#「しのびなき」に傍点]」
寒子のアパルトへ来ると、かうして泣いて見せるのが、ミツシヱルの得意である。
「又、しのび泣きなの、困るわね」
ミツシヱルは、寒子の描きかけてゐる画架に凭れると、暫時は、しのびなき[#「しのびなき」に傍点]の話に耽ける。
「貴女はムッシュウ河下に手紙を出しますか、みつちやんしのびなき[#「しのびなき」に傍点]と云つて下さいね」
ミツシヱルのいふしのびなき[#「しのびなき」に傍点]の唄は、さだめし、此の河下の残した憶ひ出なのであらう。時々思ひ出したやうに、ミツシヱルは、河下の話をしては唄をうたふ。
[#ここから2字下げ]
雨は降る降る
じやうが島の磯に
りきやう[#「りきやう」に傍点]鼠の雨が降る
雨は真珠か
夜明けの霧か
それとも妾のしのびなき[#「しのびなき」に傍点]
[#ここで字下げ終わり]
片言混りな唄ひ振りではあつたが、切々たるミツシヱルの声は、どうかすると、寒子の郷愁をあふりたてた。
「もう止めてよ、仕事の邪魔しちやア駄目ぢやないの‥‥」
すると、唄を止めたミツシヱルは、部屋隅の寝台にひつくり返つて、
「ムッシュウ河下は、そりやアとても魚をよく食べる男だつたんですよ、鯛を買つて来ると、波のやうな型に切つて生のまゝで食べたり、日本ソースで赤く煮たりして、私に御馳走してくれたのですよ」
ミツシヱルが、真面目に、別れた東洋の男の話をすると、寒子もつひほろりとなつて問ひかけて行つた。
「その河下つて‥‥日本の何処のひとなのさ」
「河下さん、神戸でホテルをしてゐるんですつて、――もう大きい奥さんもあります。私大変悲しい」
国情の違つたこの女の言葉が、何処まで本心なのか、まだ日の浅い巴里住ひの寒子にはよく呑み込めなかつたが、来る度に河下のしのびなき[#「しのびなき」に傍点]の話をするところを見ると、よほど心に残つた男であるらしかつた。
2 窓を開けておく日が多くなつた。
寒子は、夜の九時ごろまでも続くパリの長い白暮が好きで、モンパルナツスの墓場の間の小道をよく歩いた。
割栗石の人道には、墓場の塀に沿つて、竜の髭に似た[#「似た」は底本では「以た」]草が繁つてゐた。マロニヱの花は花でまるで白い蟻のやうに散つて、実に女性的なたそがれが続く。
さうして、――並木の小道がやつと途切れて電車通りへ出ると、寒子はポケットの鍵をぢやらぢやらさせながら、ミツシヱルの唄ふ城ヶ島の唄を何時か思ひ浮かべてゐた。
「ミツシヱルの処へでも遊びに出かけてやらうかしら‥‥」
パリへ来て、別に友達もない寒子は、長い白暮を一寸もてあましコツコツ自分の靴音を楽しみながら歩いた。
灰色の女学校がある、石塀の中からは、たそがれ色の往来へ若葉が吹きこぼれて、サワサワと葉ずれの音をたてゝゐる。首に赤ハンカチを巻いたアパッシュの群が、気まぐれに寒子に眄をくれながら「|今晩は《ボンソアール》|お嬢さん《マドモアゼル》」と呼びかけて通つて行く。
まるで、絵の具の滓ばかり食つて生きてゐるやうな寒子には、耳から来るパリのたそがれの風景はたまらなくせいせいと快適なものであつた。
南画風なラブラードは、このパリのたそがれの音を、画面の中に出せたのであらうか、モジリアニの女の腰部は、パリのたそがれをよく知つてゐるのではないだらうか、――この白暮の聴覚を意識した絵が描けたら、どんなに楽しく涼しい気持であらう。何かしら、長い夕暮といふものは、物思ひさせるにふさはしい不思議な時間である。
プラス・サン・ミツシヱルに近い裏町に、ミツシヱルの屋根裏の部屋があつた。その町はもうかなり煤けて、物おじした建物が多かつた。
ミツシヱルのアパルトは、この建物の中でも特に古ぼけた石造りで、門番《コンゼルジエ》の入口は、まるで肥料倉庫のやうな、ガラガラと鳴る大きな扉がしまつてゐた。
次へ
全7ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング