混血児ですよ」
「まあ、ヱストニヤ、――さうですか」
「三四年たつたら、また逆もどりして来ますよ、――絵を描いて楽しみですか‥‥」
「楽しみ‥‥」
寒子は、心の中の埃を叩かれたやうで沈黙つてしまつた。
髭の男は、梅の実のカクテルをアンコールして寒子には甘いサンザノを註文してくれた。
「日本の××××は、どんな風なのです。貴方の眼から見た事だけで結構です」
だが、ブルジョアの娘として伸々とそだつて来た寒子には、そんな風な事には関心してゐなかつた。
「どんな風つて、新聞で読むだけですのよ」
すると、髭の男は、不意に話題を変へて、
「日本まで旅費はどのくらゐかゝりますか、勿論船ですが‥‥」
「さあ、二等で七〇パウンド位でせうかしら‥‥」
「二等でね、中々かゝりますね、――貴方は、中々おしあはせなお身分ですよ、ロロから聞くと、水を吸う苔のやうなひとだと聞きました。色々なものを勉強して下さい。絵は誰のが好きですか――僕も絵は好きで絵の理論はうまいのですが、中々ね」
二人の会合を誰も知らない。
寒子は、違つた世界をのぞいて、その夜はひどく、ドウキがはげしく踊つてゐた。
8 パレットから緑を連想し、地図の上から、汽車をひろはふとした熱情もいつか失せて、寒子はまた何日か埃の中の静物の上に摸索を続けさせてゐた。
ロロもいまは国外追放になつてしまつてゐるし、ミツシヱルも、他のモデルの風説では、すつかりソルボンヌの文科大学生と恋仲になつてしまつてゐると云ふ事であるし、――寒子は孤独なまゝに、いつか、自分の描く絵にギモンを持つて来た。
「こんな花だの、林檎だの描いていつたい何になるんだらう――何の役に立つのだらう」
筆をポキ/\折つてしまひたかつた。
何度となく故郷へ帰りたいと手紙を出しても、家から来るたよりは、折角パリへ出かけたのだから、仕上げて帰つて来たらといつて来るばかりであつた。「何を仕上げるのだらう――」
パリにゐる日本人の絵描きは、大方寒子のことをうらやましがつてゐた。
寒子もそれに甘へてひどく長閑に、気まゝに絵を描くことに精進してゐたのだが、牢屋のキャバレーで、眼の美しい髭の男を見てから、退屈屋の寒子が、余計海の上の雲のやうに呆んやり考へる日が多くなつた。
たまに気が向くと十四区の城街へ足をやつてみるのだが、共産党の本部の扉は、いつでも閉つたまゝで人声が聞えない。
ミツシヱルのアパルトも幾度か尋ねてはみたが、その都度留守で、会へない時が多かつた。たまに会つても、いつもそは/\と急がし気で、顔中がひどく武装して見えた。
「どうしたのだらう――」
かうなると、妙に自分が金持ちの、のらくら娘に思へて、寒子は自分で自分の気持に弱り果てた。
七月の革命祭にはお互にフィアンセを見つけてヒロウしようなぞと笑つた踊りの夜も過ぎて寒子にはなまあたゝかい無為の日が続く。
まるで悪病みたいに静物にとりつかれて――さう開きなほると、寒子は方向転換に、毎日カルトンをさげてセーヌの石畳の上にスケッチに出かけた。
「パリへ来て、こんな気持の堆積が自分を神経衰弱にするのだ」
さう思つて街を見ると、リオンの停車場でひと目見たパリの印象がボヤボヤと崩れて、最もビジネス的な風景になつて来る。
寒子は胸を張つていつぱい空気を吸つた。
両足を男の子のやうにふんばらして、カルトンを持ちあげた。
眼を細めるとサン・ミツシヱル橋も樹も建物も生々と美しかつた。只黒いコンテの心臓から聴覚につたはるパリの姿を描かふ、私の仕事はそれでいゝのだわ、私を革命家にするのなら、もつと不遇な家に生れさせるといゝ。私は一年も二年もつかひきれない程の財産家に生れてゐるのだもの、何を好んで美しいものゝ無意義を感じなければならないのだらう、「楽しみですか?」と問はれた場合、はつきりと、大きな声で、「大変楽しみです」といふやうにしよう――。
9 「|今日は《ボンジュール》!」
眼鏡型の橋を描きかけてゐた時であつた。寒子の背を叩く白い大きな掌があつた。愕いて振り向いた寒子の眼の上に、あの澄んだ美しい髭の男があつた。
だが、髭はもう綺麗に取り去られて、青年に近い美しさだ。
「まあ、しばらく‥‥」
「橋の上から貴女がよく見えた、――相変らずお楽しみですね」
「楽しみ‥‥」
あんなに威張つて、「楽しみに描いてゐる」と云ふ言葉も、――また泡のやうに此男の前では消えてしまつたではないか。
で、寒子はわざと話題を変へてロロはと聞くと、男は、笑つて、早い三、四年で、もうロロは巴里の屋根の下で眠つてるよと答へた。
ものぐさなロロが、もうパリにはひりこんで、パリの街のどこかで眠つてゐる。――
雨がパラパラと鼻の頭にあたつた。
風が気早に、マロニヱの繁みを雨傘のやう
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