しに、ミツシヱルにウインクして見せながら、茶目ツ子らしく舌を出してゐた。
6 旅行案内所では急に夏の旅行パンフレットを店先に並べ出した。
女の姿もめだつて美しく、海色の流行色が、繁つたマロニヱの木の下を、まるで魚のやうに歩いてゐる。キャフェのテラスには、だんだら縞の海岸傘が一時にパツと開いて、パリは、高山のお花畑になつてしまつた。
寒子は、ミツシヱル達に別れたまゝ一ヶ月も静物と暮らしてしまつたのだが、静物も一ヶ月続くともう埃つぽさを感じ、面のない動きのない、音のない材料に、すつかりヘトヘトに参つてしまつた。
「嫌になつてしまふ、ミツシヱルでも雇つて、コスチウムを描かうかしら、それとも‥‥」
そんなことを考へてゐると、急に風景の緑がパレットに写つて、寒子は心の中に落ちつきを失つてしまつた。
周章て地図をひつくり返すと、風景のよささうな田舎への汽車をしらべて見た。
「フォンテヌブローの森も悪くはない、それともコースを伸ばして、ブルタァニュの海辺へ行つてみようかしら‥‥」
高いモデルを使つて、始終動かれて焦々するより、風景を描かう――寒子は靴[#「靴」はママ]をあけて、気早にもうパンタロンやシュウミイズを投げ込んで[#「込んで」は底本では「返んで」]ゐた。
「今日はア」
扉の外で、コツコツ誰かノックする者がゐる。
「誰《キヱラア》?」
「ロロよ」
寒子は、驚いて扉をあけて「まあ、思ひがけない、お客様ね」とロロの手を握りしめた。
「気がむいたの?」
「えゝ気がむきすぎたの‥‥」
「まあ、こはいぞオ」
「そのこはい御用で来たのよ」
「こはい御用?」
「うん」
「ふん‥‥」
「水をいつぱい呑まして」
「レモナードが少しあるわ」
「なら、少し――親切ね」
「だつてこゝは紳士《ムッシュ》がゐないもの」
「だから、変りになの‥‥東洋の男も女も出来が違つてゐるつて」
「ミツシヱルのおしやべりがいつたの」
「感心してゐた」
日の光や、灯火の下で見たロロの甘さが少しもこゝでは見られなかつた。――夏だといふのにロロの額は雪のやうに冷たげで、ベレーからはみ出た灰色つぽい髪の毛はひどく生活の佗しさを匂はせてゐた。
「私、反ジャンヌダルクの役割を持つてゐるんですがね、分りますか?」
7 十四区のゴミゴミした城街《シャトウ》に、パリ共産党の本部があつた。
外側から見ると、まるで日本の田舎に見る日曜学校のやうな造りで、通行人は、たまたまこのみすぼらしい建物を忘れて通つてしまふ。――昼間でさへ忘れられがちな、この本部は、夜になると、誰がこはしたのか――家の前の街灯はいつも灯火がはひらないので、ほとんど誰の注意も惹かないで過ぎる。
そのやうな共産党本部なのに――今日は明明と灯火がもれて、天使のやうにマントを羽織つた巡査が二人、暗い地下室から、帽子をかぶらない女の腕を握つて通へ出て来た。
灯火のついた二階の硝子窓はいつぱいに開いて、党員の残留組なのであらう。たくみなロシヤ語でこの無帽で引かれて行く一人の女に、拍手をおくり、歌をうたつて街角に折れるまで、狂人のやうなさわぎを止めなかつた。門で見張りをしてゐる巡査も時々二階を見上げながら笑つてゐるだけで、暫時すると、前よりもいつそう静かな暗が来た。
寒子は、ロロから託された品物をパンタロンと一緒に鞄の中へ入れると、プラス・サン・ミツシヱルの燕街へ自動車を走らせた。
星が美しく降るやうであつた。
酔つぱらつた学生が伸びあがつては、自分のベレーを街灯の頭へ引つかけようとしてゐた。寒子はその街灯の前で自動車を降りるとアパッシュの門番のゐる、牢屋のキャバレーの中へ、赤いハンカチの男に案内をして貰つた。
蜜柑[#「蜜柑」は底本では「密柑」]箱のやうな舞台の上では、十二三の娘の子が、人参のやうな長靴をはいて、ビギン、ビギンといふ踊ををどつてゐた。
ギターと風琴が石の天井にコダマして、まるで水の底のやうに涼しい音をしてゐたし、女達も男達もいゝかげん煙草のもやの中に酔つぱらつてゐた。
顔の長い顎髭の男、これが寒子のさがす男だ。――だがすぐ寒子の眼の中に、その男の顔は笑ひかけてゐた。カンテラの下の卓子《テーブル》に眠つたやうに凭れて、梅の実のはひつたカクテルを呑んでゐる。
少しの間、一ツの卓子に沈黙つて坐りあつてゐた。――だがフッと思ひついて寒子が煙草を出すと眠つてゐたやうな、髭の男は、周章てブリッケの火を寒子の煙草につけてくれた。
それが機会なのだ。
寒子は別れたロロにそんな何でもない役割を課せられてゐたのであつた。
「有難う! ロロは国外追放になりましたよ」
寒子から、一つの書類束を受け取ると、髭の男は冷たく美しい眼を伏せた。
「ロロはフランス人ぢやないんですか?」
「ヱストニヤ生れの
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