になる男の子だけれど、どつちもいゝ子でまるでいゝところの子供みたいに言葉つきがよくて、親孝行なので吃驚してしまう。わたしが、どんなに夜おそく戻つて来てもおばさんは小言一つ云わないし、自分の子供と同じようにしてくれるので、わたしはこんなきれいな心持ちのひとは珍らしいと思つた。
わたしはホールで或る会社員と知りあいになつた。そのひとは少しも踊らない。つれの人と来て、いつも呆んやりと人の踊りをみている、或日、偶然、八重洲口の駅の前で逢つて、しばらくお茶をよばれながら話した。ジャワへいつていて、このごろ復員したばかりで、まだ何処にも勤めていないと云つていた。かえつてみたら、奥さんはよそのひとゝ一緒になつていて、家は焼けてしまい、いまは友人の家に同居していると云うことだつた。此世は面白いこともなければ哀しい事もない、もう、偶然だけを頼りに生きているようなものだと云つていた。むずかしい事は判らないけれども、人生に遠くおきざりを食つている自分は、いつまでも苦しい二日酔いのような毎日だとも云つた。わたしはさみしかつたので、この関と云うひとがすぐ好きになつた。関は痩せて背が高く、青黒い顔をしていた。逢うたびに、「どうだい、面白いかね?」と訊くくせがある。だから、きまつて、わたしも、「えゝ、とにかく面白いわ」と云つておく。夏になつて、二人は伊豆の大仁温泉へ行つた。小さい旅館へ泊つた。関はウィスキーを持つていた。わたしは、うちのおばさんに頼んでお米を買つてもらつて持つて行つた。畑の中の何の変哲もない旅館だつたけれど、蛙の声をきゝながら夜更けまで二人はウィスキーを飲んだ。関は死ぬる話ばかりしていた。わたしは生きている方が面白いと云う話ばかりした。蚊帳にはいつてからも、関はあまり酔つたのか、黙りこんで泣いたりしていた。わたしはおかしくて仕方がなかつた。夜半にわたしは一人で温泉にはいりに行つた。大仁へ一晩泊つてわたしたちは東京へかえつた。それから二三日して、関は自殺してしまつた。あの時からあのひとには死神がついていたのだろう。わたしも、二三日は悲しかつたけれど、段々関の事も忘れてきた。わたしは桃子と云う名前でまたホールを変えた。その日その日が重大で、田舎のことも、自分の行末の事も何も考えない位わたしはとにかく踊ることゝ遊ぶことで忙がしかつた。お金はありつたけ使つてしまうので相変らず貧乏だつたけれど、何か食べたい時は、みず知らずのひとがおごつてくれた。
九月にはいつて、わたしは、どうも躯の調子が変だと云う事に気がついた。すぐ、関の事を思い出したけれど、子供を産むのは厭だと思つた。おばさんに話をすると、おばさんは、子供だけは産まなくてはいけないと云つた。子供が出来れば、わたしのような女もしつかりして将来のことを考えるようになるだろうと云つた。わたしは、子供を産む事なンか思いたくなかつた。わたしはホールでも激しく休みなしに踊つた。わたしのような女から産れる子供は気の毒だと思う。秋風が立ちそめてきた。偶然に、わたしは新宿の通りで小山に逢つた。小山は落ちぶれた姿でいた。わたしと別れてからもいゝ生活ではなかつたように思える。立話だけれど、小山は、「お前の為に、俺はひどい目にあつてね」と、二カ月程、警察へ行つていたと云う話もした。
小山は、もう一度、気をとりなおして一緒にならないかと云つたけれど、わたしは厭だと云つた。昔の田舎娘が、すつかり変つてしまつて、どこのお嬢さんかと思つたと小山は呆れてわたしを見ていた。何をしているのだときくから、わたしは映画女優になつたのだと嘘を云つた。これから、一二年さきには、映画小舎であうことになるでしようと、云うと小山は本気にして、「俺は、もう、何もしないから、お前と一緒に住まわしてくれないか」と哀願するのだつた。わたしは、こゝろのうちでおかしくて仕方がなかつた。――男と云うものはみんな弱いものだと思つた。わたしは弱い男は嫌いだ。小山はお茶でも飲もうと云つたけれど、小山はお茶を飲むほど金を持つていないだろうと思つたので、わたしは、これから会社に行くのだと云つて、さつさと別れてしまつた。小山のような男はどうしても好きになれない。新宿駅のホームにはいると、ふつとわたしのそばに、きれいな女のひとが立つていた。灰色の背広を着て、茶色の大きいハンドバックに、同じ茶色の靴、お白粉も何もつけない顔は、日頃の手いれのゆきとゞいた美しいなめらかな肌で瞳は大きくてきらめくような表情だつた。何気なく通りすがる男たちが、その美しい女のひとに注意をむけては、ふつとわたしの方を見て、苦笑したような表情で通りすぎてゆく、わたしは何だか馬鹿にされたような気がした。――ホールへ行つて、仲間のひとたちをみると、新宿駅のホームで見たような美しい女は一人もみあたらない。
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