流れているのだが、(本当は妙正寺川と云うのかも知れぬ)この川添いにはまるで並木のように合歓の木が多い。五月頃になると、呆《ぼ》んやりした薄紅の花が房々と咲いて、色々な小鳥が、堰の横の小さい島になった土の上に飛んで来る。
まず引越しをして来ると、庭の雑草をむしり、垣根をとり払って鳳仙花《ほうせんか》や雁来紅《がんらいこう》などを植えた。庭が川でつきてしまうところに大きな榎《えのき》があるので、その下が薄い日蔭になりなかなか趣があった。私は障子を張るのが下手なので、十六枚の障子を全部尾崎女史にまかせてしまって、私は大きな声で、自分の作品を尾崎女史に読んで聞いて貰ったのを覚えている。尾崎さんは鳥取の産で、海国的な寂しい声を出す人であった。私より十年もの先輩で、三輪の家から目と鼻のところに、草原の見える二階を借りてつつましく一人で住んでいた。この尾崎女史は、誰よりも早く私の書くものを愛してくれて、私の詩などを時々|暗誦《あんしょう》してくれては、心を熱くしてくれたものであった。妙法寺に住んでいた頃、やっとどうやら私の原稿が売れ出して来ていたのだが、この家へ越して一ヶ月すると、私は放浪記を出版する事になった。原稿が売れると云っても、まだまだ国へまで送金どころか、自分たちの口が時々|干上《ひあが》るのが多くて、私はその日も勤め口を探して足をつっぱらして帰ったのであった。玄関の三和土《コンクリート》の濡れた上へ速達が落ちていたのを、めったにない事だと胸をドキドキさせて読んで行くと、「放浪記出版」と云う通知なのであった。暫《しばら》くは私は眼がくらくらして台所で水をごくごく飲んだものだ。嘘のような気がした。誰かが悪戯《いたずら》したのだろうと思った。七、八年と云う長い間、私の原稿などは満足に発表された事なんぞなかったのだ。原稿を持って雑誌社へ行って、電車賃もないのでぶらぶら歩いて帰って来ると、時に、持って行った原稿の方がさきまわりして速達で帰っている事があった。
この放浪記では、何だか随分印税を貰ったような気がしてうれしかった。長い間の借金や不義理を済ませて、私は一人で支那に遊びに行った。ハルピンや、長春、奉天、撫順、金州、三十里堡、青島、上海、南京、杭州、蘇州、これだけを約二ヶ月でまわって、放浪記の印税はみんなつかい果たして、上落合の小さい家に帰って来た。帰って来ると鳳仙花は
前へ
次へ
全11ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング