つた。
「買つてくれるお人があるのかねえ」
 眼も耳も達者で、若い時は淨瑠璃をやつてゐたせゐか、聲が澄んできれいであつた。
「えゝ、佐竹さんで、この家を世話するつておつしやるンだけど‥‥宿屋商賣も樂ぢやないし、このごろは柄が惡くなつて、使つてゐる人間だつて、爪の先ほどの親切氣もなくなつたンですもの、――つくづくこの商賣が厭になりましたわ」
「そりやアねえ、お前さんだつて樂ぢやないとおもひますけど、わたしは、もうこんな年だし、――本當は見も知らない家へ引越して死にたくはないと思つてるンだけどね‥‥」
「えゝよく判ります」
「でもねえ、何ですか、世間でよくいつてゐる、新體制ですか、それに順應してゆくといふたてまへなら、私もどこへでも行きますよ。――清治の位牌を持つてどこでも行きます」
 一ヶ月ばかり前にやとひいれた里子といふ若い女中が、足袋もはかない大きい足で廊下を走つて來た。
「お神さん、雪の間で御勘定して下さいつて‥‥」
 久江は障子の外から立つたなりでものをいつている里子の無作法に眉をしかめながら、
「あら、まだ二三日いらつしやるつて御樣子だつたのに、もう、お立ちになるのかい?」
「えゝ、急に歸るンですつて‥‥」
「歸るつて言葉はないでせう。お歸りになりますつていふのよ――、どうも、この節のひとは、どうして、こんなに野郎言葉になつちまつたのかねえ」
 久江は帳場へ行つて硯の墨をすりはじめた。

        二

 風のない暖かい陽氣が二三日續いた。
 久江は地下鐵で淺草まで行き、松屋のそばから馬道の方へ這入つて行つた。二天門から觀音樣の境内へはいつて、行くと、平内樣を拜んでそれから暫く群れてゐる鳩を眺めてゐた。
 鳩は無心に久江の足もとに餌をついばみにやつて來る。豆賣りの店を見ると、大豆はほんの數へるほど、錻力の小皿の中には、雜穀が澤山混つてゐる。久江は觀音樣へ來る度に、豆賣りから豆を買つて鳩へ與へるのがならはしであつた。
 肩の上に白つぽい鳩が飛び降りて來た。
 清治を連れてよくこの鳩を見に來たものだつたがと、今日、別れて久しい良人に會ふことが、久江にはあんまりいゝ氣持ではなかつたのだ。
 四十七にもなつて、女が世間を迷ひ歩くといふことは、あまりみつともいゝことではないと思ひながらも、清治のゐなくなつたいまでは妙に氣持が弱くなつてしまつてゐて、まるで十七八の
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