の思ひやりに、久江はいやいやと頭を振りうごかしてゐる。
昨夜はまんじりともしなかつたけれども、兎に角、一晩たつたといふことは、福へ對しての怒りを、ほどよく冷ますのに十分であつた。
今、眼の前に見る福といふ女は、久江にはきれいに見えた。赤ん坊もよくふとつて、清治に生うつしである。
富士山のやうに盛りあがつた小さい唇に、蟹のやうにつば[#「つば」に傍点]きをためながら、青く澄んだ眼を久江へ呆んやり向けた。久江が思はず手を出すと、赤ん坊は思ひがけないあどけさで兩の手を久江の方へのばして來るのである。
福は佛壇の前へ行きたくて仕方がないやうな赧い顏をして襖のそばへきちんとかしこまつてゐた。
久江は兩手を出してる赤ん坊をそのまゝすくひあげるやうに抱きあげて、
「まア、一寸、お佛さま拜んで下さい。今日は甘いものをあげようと思つたンだけど」
さういつて、床の間のとこに坐つてゐる。[#「坐つてゐる。」はママ]赤いちやんちやんこのおばあさんの處へ、赤ん坊を抱いて行つてみせるのであつた。
福はしづかに佛壇の前へ行つてお線香に火をつけてゐる。襟足が初々しくて、しぽの太い白い襟から、首すぢの皮膚がうすあかく匂つてゐた。
福はしばらく疊に額をつけて拜んでゐた。
「昨夜もねえ、清治の學生のころの日記を出してみたら、あんたのことが書いてあつたのよ、十二月のところなンか、毎晩のやうに、夜福々々つて書いてあるンだけど、――あの頃、何だか、毎晩用事があつて、十二時近くでなきや戻つて來なかつたけど‥‥あのひとらしいと思つて、夜、福さんのとこへ行つたつて意味なンだらうね‥‥」
久江は、福を笑はせるつもりだつたが、福は默つて疊に額をすりつけたまゝ靜かに泣いてゐた。
赤ん坊は乳臭くて可愛かつた。
大森に住んでゐた頃、こんな風に清治を抱いて海を見に行つたことがあつたつけと、久江は赤ん坊の頬に、長い髮の毛のくつゝいてゐるのを唇で吹いて取つてやりながら、
「ねえ、お福さん、坊やの名前は何ていふの‥‥」
と優しく尋ねた。
廊下の處へおしめカヴアーをさげて坐つてゐた子守が、
「清太郎さんておつしやいます」
と教へてくれた。
大森にゐたころ、大吉郎は海苔屋をしてゐた。いまは海産問屋をしてゐるのだけれども、赤ん坊を抱いてゐると、羽二重の着物に、何とない海苔の匂ひがしてゐる。
久江は子供の柔かい
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