生れたときだ。まだその頃の空知の國はもつと未開の地であつたに違ひない。
 天井の燈を消して枕元のスタンドをつけた。何か本を讀んで此愛なく情なく荒凉寂寞たる自分の氣持ちに應へたかつたけれど、何も讀む氣がしない。夜更けて嬌聲を聞いたけれど、女中が迎へに來て云ふには、「うちではカフヱーもやつてゐるんで厶いますが、お厭でなかつたらいらつしやいませんか」その嬌聲は女給達の聲であつた。
 妙に疲れてゐたので、そのまゝカフヱーにも行かないで枕元の燈火をつけたまゝ私は深く眠つてしまつた。
 翌朝は不幸なことに曇つてゐた。九時十五分の汽車で根室線に這入る。
 空知の風景は私には苦しすぎる位廣かつた。北海道の地圖は少しばかりコチヨウして小さくしてありはせぬかと思ふほど宏大で、空よりも平野が廣い。途中空知のぼんもじり[#「ぼんもじり」に傍点]より沛然たる雨で、澤梨《さんなし》の白い花が虹のやうに光つて見えた。黒くなつて畑を耕してゐる人達の、汗だらけの努力を、沁々として感謝せずにはゐられない。
 朝から汽車へ乘りづめ、しかも此根室線には急行がないので、一驛一驛私は野原の中の驛々にお目にかゝれる。
 釧路《くしろ》へ着いたのが八時頃で、驛を出ると、外國の港へでも降りたやうに潮霧《がす》がたちこめてゐた。雨と潮霧で私のメガネはたちまちくもつてしまふ。帶廣から乘り合はせた、轉任の鐵道員の家族が、町を歩いて行つた方が面白いですよと云つて、雨の中を子供を連れた家族達が私を案内してくれた。
 山形屋と云ふのに宿を取る。古くて汐くさいはたご屋であつたが、部屋には熊の毛皮が敷いてあつた。――町を歩いてゐても、宿へ着いても、三分おきに鳴つてゐる霧笛の音は、夜着いた土地であるだけに何となく淋しい。遠くで霧笛を聽くと夕燒けの中で牛が鳴いてゐるやうな氣がする。こゝでは朝日新聞の伊藤氏に紹介状を貰つて來てゐたけれど、伊藤氏には逢ひにもゆかずに、默つて宿屋へ着いてしまつた。宿では、無職と書いて怪しまれた。女中は老けた女で何となく固い。判で押したやうな宿屋の遲い夕飯を食べて、熊の毛皮の上に體を伸ばしてみる。まるで熊の背中に馬乘りになつてゐるやうでをかしい。手紙を書いてゐると、今日乘つた列車の食堂車に働いてゐた十六ばかりの二人の少女が、同じ宿に泊りあはせたからと遊びに來た。給仕服をぬぐと二人とも美しいので愕く。明日はまた
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