壁に書いてみた。
夕飯の仕度の出来るまで赤ん坊をおぶって廊下を何度も行ったり来たり。
秋江氏の家へ来て一週間あまり、先《さき》のメドもなさそうだ。
こゝの先生は、日に幾度も梯子段を上ったり降りたり、まるで廿日鼠《はつかねずみ》だ。あのシンケイにはやりきれない。
「チャンチンコイチャン! よく眠ったかい!」
私の肩を覗いては、先生は安心したようにじんじんばしょりして二階へ上って行く。私は廊下の本箱から、今日はチェホフを引っぱり出して読む。チェホフは心の古里だ。
チェホフの吐息は、姿は、みな生きて、たそがれの私の心に、何かブツブツものを言いかけて来る。
匂おわしい手ざわり、こゝの先生の小説を読んでいると、もう一度チェホフを読んでもいゝのになあと思う。京都のお女郎の事なんか、私には縁遠いねばねばした世界だ。
夜。
家政婦のお菊さんが、美味《おい》しそうなゴモク寿司をこしらえているのを見て、嬉しくなった。
赤ん坊を風呂に入れて、ひとしずまりすると、もう十一時だ。私は赤ん坊と云うものが大嫌いなんだが、不思議な事に、赤ん坊が私の脊におぶさると、すぐウトウト眠ってしまって、家の人達が珍らしがっていた。
お蔭で本が読めること――。
年を取って子供が出来ると、仕事も手につかない程心配なのかも知れない。反感《いやみ》がおきる程、先生は赤ん坊にハラハラしているのを見ると、女中なんて一生するもんじゃないと思った。
うまごやし[#「うまごやし」に傍点]にだって可憐な白い花が咲くって事を、先生は知らないのかしら……。
奥さんは野育ち[#「野育ち」に傍点]な人だけに、眠った様な女だったが、この家では一番好きだった。
十二月×日
ひま[#「ひま」に傍点]が出る。
行くところなし。
大きな風呂敷包みを持って、汽車道の上に乗った陸橋の上で貰らった紙をひらいてみたら、たった弐円はいっていた。二週間あまりいて、金弐円也、足の先から血があがるような思いだった。
ブラブラ大きな風呂敷包みをさげて歩いていると、ザラザラした気持ちで、何もかも投げ出したくなった。間代も払って、やれやれと住み込むと、二週間でお払いばこだ。
蒼い瓦葺きの文化住宅の貸家があった。庭が広ろくて、ガラス窓が二月の風にキラキラ光っていた。休んでやろうかな。
勝手口をあけると、さびた鑵詰のかんからがゴロゴロして、座敷の畳がザクザク砂で汚れていた。
昼間の空家《あきや》は淋しい、薄い人の影があそこにもこゝにもたゝずんでいるようで、寒さがビンビンこたえて来る。
どこへ行こうかしら、弐円ではどうにもならないし、はばかり[#「はばかり」に傍点]から出て来ると、荒れた縁側のそばへ、狐のような目のクリクリした犬がじっと私を見ている。
「何でもないんだよ、何でもありゃしないんだよ。」
言いきかせるつもりで、私は屹とつったっていた。
どうしようかなあ……。
夜。
新宿の旭町の木賃宿へ泊る。
石垣の下の、雪どけで、道がこねこねしている通りの、旅人宿に、一泊参拾銭で私は泥のような体を横たえた。
三畳の部屋に、豆ランプのついた、まるで明治時代にだってありはしない部屋の中に、明日の日の約束されてない私は、私を捨てた島の男へ、たよりにもならない長い手紙を書いた。
[#ここから2字下げ]
みんな嘘っぱちばかりの世界だ!
甲州行きの終列車が頭の上を突きさした
百貨店《マーケット》の屋上のように寥々とした
全生活を振り捨てゝ私は
木賃宿の蒲団に静脈を延ばした
列車にフンサイされた死骸を
私は他人のように抱きしめて
真夜中煤けた障子をいっぱい明けると
こんなところにも月がおどけていた。
みんなさよなら[#「さよなら」に傍点]
私は歪んだサイコロ[#「サイコロ」に傍点]になって逆もどり
こゝは木賃宿街の屋根裏
私は堆積された信念をつかんで
ビョウ ビョウと風に吹かれていた。
[#ここで字下げ終わり]
夜中になっても人がドタドタ出はいりしている。
「済みませんが……。」
ガクガクの障子をあけて、銀杏返えしに結った女が、そう言ったきり、薄い私の蒲団にもぐり込んで来た。
ドタドタと大きい足音がすると、帽子もかぶらないうす汚れた男が細めに障子をあけて声をかけた。
「オイ! おきろ!」
女が、一言二言つぶやきながら、廊下へ出ると、パチンと頬を打つ音が続けざまに聞えて、無意味な、汚水のような寞々とした静かさが続いて、女の乱して行った空気が、仲々しずまらなかった。
「今まで何をしていたのだ、原籍は、どこへ行く、年は、両親は……。」
あのうす汚れた男が、鉛筆をなめ乍ら、私の枕元に立っている。
どうにでもなれッ。
「あの女と知りあいか?」
「え、三分間ばかり……。」
クヌウト・ハムスンだって、こんな行きがゝりは持たなかっただろう。刑事が去ると、私は伸々と手足を延ばして枕の下に入れてある財布をさわってみた。壱円六拾五銭残っている。
日がビュウビュウ風に吹かれているのが、歪んだ高い窓から見える。ピエロは高いところから飛びおりる事は上手だが、上って見せる芸当は容易じゃない。
だが何とかなるだろう。――。
三月×日
青梅街道の入口の飯屋へ行く。熱いお茶を呑んでいると、ドロドロに汚れた労働者が馳け込むように這入って来て、
「姉さん! 拾銭で何か食わしてくんないかな、拾銭玉一ツきりしかないんだよ。」
大声で正直に立っていると、十五六の小娘が、
「御飯に肉豆腐でいゝですか。」
労働者は急にニコニコしてバンコ[#「バンコ」に傍点]へ腰かけた。そして大きな丼の飯と、葱のはいった肉豆腐と汁碗を前にして、天真にたべている。
一食拾銭よりと書いてあるのに、十銭玉一ツきりの此労働者は、スナオ[#「スナオ」に傍点]に正直に、入口から念を押している。
涙ぐましい気持ちだった。
御飯の盛りが私のヨリ多いような気がしたけれど、あれで足りるかしら、足りなかったら出してあげてもいゝけど、でも労働者はいたって朗らかだった。
私の前には、御飯にごった煮にお新香、まことに貧しき山海の珍味。合計拾弐銭也、のれんを出ると――どうもありがとう――お茶をたらふく呑んで、朝のあいさつをかわして、拾弐銭、どんづまりの世界は、光明と紙ひとえで、真に朗らかだ。
だが、あの四十近い労働者の事を思うと、これは又、拾銭玉一ツで、失望、どんぞこ、堕落との紙ひとえだ――。
お母さんだけでも東京へ来てくれゝば、何とか働きようもあるんだけど……沈むだけ沈んだ私は難破船、飛沫がかゝるどころではない、ザンブザンブ潮水を呑んで、結局私も昨夜の淫売婦と、そう変った考えも持っていやしない。
あの女は卅すぎていたかも知れない。私が男だったら、あのまゝ一直線にあの夜に溺れて今朝はあの女と、もう死ぬ話でもしていたか知れない。荷物を宿にあずけて、神田の職業紹介所に行く。
何と云う冷たいこうまんちきな女だろう、私は、どこへ行っても砂っ原のように亮々とした思いがするので、厭になってしまった。
お前さんに使ってもらうんじゃないんだよ。
おたんちん!
馬鹿野郎!
ひょっとこ!
そうくり返えしている間に、私の番が来た。桃色の吸取紙みたいなカードを渡すと、月給参拾位い……受付女史はこうつぶやくと、私の体を見て、まずせゝら笑って云った。
「女中じゃいけないの? 事務員なんて、学校出がウヨウヨいるんだから……女中なら沢山あってよ。」
後から後から美しい女の花束、真にごもっともさまで私の敵ではない。疲れた彼女達の中にも、冬らしい仄かな香水の匂いがする。
得るところなし。
紹介状は、墨汁会社と、ガソリン嬢。伊大利大使館の女中。
ふところには、もう九拾銭あまりしかない、夕方宿へ帰えると、街に働きに出る芸人達が、縁側の植木鉢みたいに並んで、キンキンした鼠色のお白粉を塗りたくっている。
「昨夜《ゆうべ》は二分しかうれなかった。」
「やぶにらみじゃ買い手がねえや!」
「これだって好きだって人があるんだからね。」
「はい御苦労様か……。」
十四五の少女《むすめ》同志のはなし。
十二月×日
ワッハ ワッハ ワッハ 井戸つるべ、狂人になるような錯覚がおこる。マッチをすって眉ずみをつける。
午前十時。
麹町三年町の伊大利大使館へ行く。
笑って暮らしましょう。
顔がゆがみまする。
黒人の子が馬に乗って出て来た。門のそばにこわれた門番の小屋みたいなのがあって、白と蒼と青との風景、砂利が遠くまでつゞいて、所詮は私のような者の来るところでもなさそうだ。
地図のある、赤いジュウタンの広い室に通されると、白と黒のコスチウム、異人の妻君って美しい、遠くで見るとなお美しい。さっき馬で出て行った男の子が鼻を鳴らしながら帰えって来た。
男の異人さんも出て来たが、大使ではなく、書記官だとかって事だ。夫婦共脊が高くてアッパクを感じる。
その白と黒のコスチウムをつけた夫人に、コック部屋を見せてもらう。コンクリートの箱の中に玉葱がゴロゴロしていて、七輪が二ツ置いてあった。此七輪で、女中が自分の食べるのだけ煮たきするのだと云う。まるで廃屋のような女中部屋、黒いよろい戸がおりていて、石鹸のような外国の臭いがする。
結局ようりょう[#「ようりょう」に傍点]を得ないで門を出る。ゴウソウな三年町の邸町を抜けて坂を降りると、吹き上げる十二月の風に、商店の赤い旗がヒラヒラ暮れ近かく瞳にしみた。
人種が違っては人情も判りかねる。どこか他を探して見様かしら。
電車に乗らないで濠ばたを歩いていると、国へ帰りたくなった。目当《めあて》もないのにウロウロ東京で放浪したところで、結局どうにもならない。電車を見ていると死ぬる事を考える。
本郷の前の家へ行く。叔母さんつめたし。
近松氏から郵便来ている。出る時に、十二社の吉井勇さんのところに女中がいるから、ひょっとしたら、あんたを世話してあげると云う、先生の言葉だったが、薄ずみで書いた断り状だった。
夕方新宿の街を歩いていると、妙に男の人にすがりたくなった。
誰か助けてくれる人はないかなア……新宿駅の陸橋に紫色のシグナルがチカチカゆれているのを見ると、涙で瞼がふくらんで、子供のようにしゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]が出た。
当ってくだけてみよう――。
宿の叔母さんに正直に話しする。仕事がみつかるまで、下で一緒にいていゝと云ってくれた。
「あんた、青バスの車掌さんにならないかね、いゝのになると七拾円位いはいるそうだが……。」
どこかでハタハタ[#「ハタハタ」に傍点]でも焼いているのか、とても臭いにおいが流れて来る。七拾円もはいれば素的だ。ブラさがるところをこしらえなくては……。十燭の電気のついた帳場の炬燵にあたって、お母アさんへ手紙を書く。
――ビョウキシテ、コマッテ、イルカラ、三円クメンシテ、オクッテクダサイ。
此間の淫売婦が、いなりずし[#「いなりずし」に傍点]を頬ばりながらはいって来る。
「おとついはひどいめに会った! お前さんもだらしがないよ。」
「お父つぁん怒ってた?」
電気の下で見ると、もう四十位の女で、バクレン[#「バクレン」に傍点]者らしい崩れた姿をしていた。
「私の方じゃあんなのを梟と云って、色んな男を夜中に連れこんで来るんだが、あんまり有りがたい客じゃないんですよ。お父つぁん油しぼられて、プンプン怒ってますよ。」
人の好さそうな老いたお上さんは、茶を入れながら、あの女をのゝしっていた。
夜うどん[#「うどん」に傍点]をたべる。
明日はこゝの叔父さんの口ぞえで青バスの車庫へ試験うけに行ってみよう……。
電線が鳴っている。
木賃|宿街《ホテルガイ》の片隅に、此小さな女は汚れた蒲団に寝ころんで、壁に張ってある、大黒さんの顔を見ながら雲の上の御殿のような空想をする。
国へかえってお嫁さんにでも行こうかしら。――
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