樽のような信玄袋を持って、まるで切実な一つの漫画だった。
 小川町の停留所で四五台の電車を待ったが、登校時間だったのか来る電車は学生で満員だった。
 往来の人に笑われながら、朝のすがすがしい光りをあびていると顔も洗わない昨夜からの私達は、インバイ[#「インバイ」に傍点]のようにも見えたろう。
 たまりかねて、二人はそばや[#「そばや」に傍点]に飛び込むと始めてつっぱった足を延した。そば屋の出前持の親切で、円タクを一台頼んでもらうと、二人は約束しておいた新宿の八百屋の二階へ越して行った。
 自動車に乗っていると、全く生きる事に自信が持てなくなった。
 ぺしゃんこに疲れ果てゝしまって、水がやけに飲みたかった。
「大丈夫よ! あんな家なんか出て来た方がいゝのよ。自分の意志通りに動けば私は後悔なんてしないよ。」
「元気を出して働くよ、あんたは一生懸命勉強するといゝわ……。」
 私は目を伏せていると、サンサンと涙があふれて、たとえ俊ちゃんの言った事が、センチメンタルな少女らしい夢のようなことであっても今のたよりない身には、只わけもなく嬉しかった。
 あゝ! 国へ帰ろう……お母さんの胸ん中へ走って帰ろう……自動車の窓から、朝の健康な青空を見た。走って行く屋根を見た。
 鉄色にさびた街路樹の梢にしみじみ雀のつぶて[#「つぶて」に傍点]を見た。
[#ここから2字下げ]
うらぶれて異土のかたゐとならふとも
故里は遠きにありて思ふもの……
[#ここで字下げ終わり]

 かつてこんな詩を読んで感心した事があった。

 十一月×日
 愁々とした風が吹くようになった。
 俊ちゃんは先の御亭主に連れられて樺太に帰ってしまった。
 ――寒むくなるから……――と云って、八端のドテラ[#「ドテラ」に傍点]をかたみ[#「かたみ」に傍点]に置いて東京をたってしまった。
 私は朝から何も食べない。童話や詩を三ツ四ツ売ってみた所で、白いおまんまが、一ヶ月のどへ通るわけでもなかった。
 お腹がすくと一緒に、頭がモウロウとして、私は私の思想にもカビ[#「カビ」に傍点]を生やしてしまった。
 あゝ私の頭にはプロレタリヤもブルジョアもない。たった一握りの白い握り飯が食べたい。
 いっそ狂人になって街頭に吠えようか。
「飯を食わせて下さい。」
 眉をひそめる人達の事を思うと、いっそ荒海のはげしい情熱の中へ身をまかせようか。
 夕方になると、世俗の一切を集めて茶碗のカチカチと云う音が下から聞えて来る。グウグウ鳴る腹の音を聞くと、私は子供のように悲しくなって、遠くに明い廓の女郎達がふっと羨ましくなった。
 沢山の本も今はもう二三冊になって、ビール箱には、善蔵の「子を連れて」だの「労働者セイリョフ」直哉の「和解」がさゝくれてボサリとしていた。

「又、料理店でも行ってかせぐかな。」
 ちん[#「ちん」に傍点]とあきらめてしまった私は、おきやがりこぼし[#「おきやがりこぼし」に傍点]のように変にフラフラした体を起して、歯ブラシや石鹸や手拭を袖に入れると、風の吹く夕べの街へ出た。
 ――女給入用――のビラの出ていそうなカフェーを次から次へ野良犬のように尋ねて……只食う為に、何よりもかによりも私の胃の腑は何か固形物を慾しがっていた。
 あゝどんなにしても食わなければならない。街中が美味そうな食物じゃあないか!
 明日は雨かも知れない。重たい風が漂々と吹く度に、昂奮した私の鼻穴に、すがすがしい秋の果実店からあんなに芳烈な匂いがする。[#地から2字上げ]――一九二八・九――
[#改ページ]

   濁り酒

 十月×日
 焼栗の声がなつかしい頃になった。

 廓を流して行く焼栗のにぶい声を聞いていると、ほろほろと淋しくなって暗い部屋の中に、私はしょんぼりじっと窓を見ていた。

 私は小さい時から、冬になりかけると、よく歯が痛んだ。
 まだ母親に甘えている時は、畳に転々泣き叫び、ビタビタの梅干を顔一杯塗って貰っては、しゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]をして泣いていた私だった。
 だが、ようやく人生も半ば近くに達し、旅の空の、こうした佗しいカフェーの二階に、歯を病んで寝ていると、じき故郷の野や山や海や、別れた人達の顔を思出す。

 水っぽい瞳を向けてお話をするのゝ[#「のゝ」に傍点]様は、歪んだ窓外の漂々としたお月様ばかり……。
「まだ痛む……。」
 そっと上って来たお君さんの大きいひさし[#「ひさし」に傍点]髪が、月の光りで、黒々と私の上におおいかぶさると、今朝から何も食べない私の鼻穴に、プンと海苔の香をたゞよわせて、お君さんは枕元にそっと寿司皿を置いた。そして黙って、私のみひらいた目を見ていた。
 優しい心づかいだ……わけもなく、涙がにじんで、薄い蒲団の下からそっと財布を出すと、君ちゃんは、
「馬鹿ね!」
 厚紙でも叩くようなかるい痛さで、お君さんは、ポンと私の手を打つと、蒲団の裾をジタジタとおさえてそっと又、裏梯子を降りて行った。
 あゝなつかしい世界だ。

 十月×日
 風が吹く。
 夜明近く水色の細い蛇が、スイスイと地を這っている夢を見た。
 それにとき[#「とき」に傍点]色の腰紐が結ばれていて、妙に起るとから[#「起るとから」はママ]、胸さわぎのするようないゝ事が、素的に楽しい事があるような気がする。

 朝の掃除がすんで、じっと鏡を見ていると、蒼くむくんだ顔は、生活に疲れ荒さんで、私はあゝと長い溜息をついて、壁の中にでもはいってしまいたかった。

 今朝も泥のような味噌汁と、残り飯かと思うと、支那そばでも食べたいなあと思った。
 私は何も塗らない、ぼんやりとした顔を見ていると、急に焦々として、唇に紅々と、べに[#「べに」に傍点]を引いてみた。

 あの人はどうしているかしら……AもBもCも、切れ掛った鎖をそっと掴もうとしたが、お前達はやっぱり風景の中の並樹だよ……。
 神経衰弱になったのか、何枚も皿を持つ事が恐ろしくなった。

 のれん[#「のれん」に傍点]越しにすがすがしい朝の盛塩を見ていると、女学生の群にけとばされて、さっと散っては山がずるずるとひくくなって行く。

 私が此家に来て二週間、もらい[#「もらい」に傍点]はかなりある。
 朋輩が二人。
 お初ちゃんと言う女は、名のように初々しくて、銀杏返しのよく似合うほんとに可愛いこだった。

「私は四谷で生れたのだけど、十二の時、よその叔父さんに連れられて、満洲にさらわれて行ったのよ。私芸者屋にじき売られたから、その叔父さんの顔もじき忘れっちまったけど……私そこの桃千代と云う娘と、よく広いつるつるした廊下をすべりっこしたわ、まるで鏡みたいだった。
 内地から芝居が来ると、毛布をかぶって、長靴をはいて見にいったわ、土が凍ってしまうと、下駄で歩けるのよ、だけどお風呂から上ると、鬢の毛がピンとして、おかしいわよ。
 私六年ばかりいたけど、満洲の新聞社の人に連れて帰ってもらったのよ。」

 客の飲み食いして行った後の、テーブルにこぼれた酒で字を書きながら、可愛らしいお初ちゃんは、重たい口で、こんな事を云った。
 も一人私より一日早くはいったお君さんは脊の高い母性的な、気立のいゝ女だった。

 廓の出口にある此店は、案外しっとり落ついていて、私は二人の女達ともじき仲よくなれた。
 こんな処に働いている女達は、始めどんな意地悪るくコチコチに要心して、仲よくなってくれなくっても、一度何かのはずみでか、真心を見せると、他愛もなく、すぐまいってしまって、十年の知己のように、まるで姉妹以上になってしまう。
 客が途絶えると、私達はよくかたつむり[#「かたつむり」に傍点]のようにまるくなった。

 十一月×日
 どんよりとした空。
 君ちゃんとさしむかいで、じっとしていると、むかあしかいだ事のある、何か黄ろっぽい花の匂いがする。
 夕方、電車通りの風呂から帰って来ると、いつも呑んだくれの大学生の水野さんが、初ちゃんに酒をつがして呑んでいた。
「あんたはとうと裸を見られたわよ。」
 お初ちゃんがニタニタ笑いながら、鬢窓に櫛を入れている私の顔を鏡越しに見て、こう言った。
「あんたが風呂に行くとすぐ水野さんが来て、あんたの事聞いたから、風呂って云ったの……」
 呑んだくれの大学生は、風のように細い手を振りながら、頭をトントン叩いていた。
「嘘だよ!」
「アラ! 今言ったじゃないの……水野さんてば、電車通りへいそいで行ったから、どうしたのかと、思ってたら、帰って来て、水野さん、女湯をあけたんですって、そしたら番台でこっちは女湯ですよッ! て言ったってさ、そしたら、あゝ病院とまちがえましたってじっとしてたら、丁度あんたが、裸になった処だって、水野さんそれゃあ大喜びなの……。」
「へん! 随分助平な話ね。」
 私はやけに頬紅をはくと、大学生は薄いコンニャクのような手を合わせて、
「怒った? かんにんしてね!」
 裸が見たけりゃあ、お天陽様の下に真裸で転って見せるよッ! とよっぽど、吐鳴ってやりたかった。
 一晩中気分が重っくるしくって、私はうで[#「うで」に傍点]卵を七ツ八ツパッチンパッチンテーブルへぶっつけてわった。

 十一月×日
 秋刀魚を焼く匂いは季節の呼び声だ。
 夕方になると、廓の中は今日も秋刀魚の臭い、お女郎は毎日秋刀魚じゃあ、体中うろこ[#「うろこ」に傍点]が浮いてくるだろう……

 夜霧が白い白い、電信柱の細っこい姿が針のように影を引いて、のれんの外にたって、ゴウゴウ走って行く電車を見ていると、なぜかうらやましくなって鼻の中がジンと熱くなる。
 蓄音器のこわれたゼンマイは昨日もかっぽれ[#「かっぽれ」に傍点]今日もかっぽれ[#「かっぽれ」に傍点]だ。

 生きる事が実際退屈になった。
 こんな処で働いていると、荒さんで荒さんで、私は万引でもしたくなる。女馬賊にでもなりたくなる。
 インバイにでもなりたくなる。

[#ここから2字下げ]
若い姉さんなぜ泣くの
薄情男が恋ひしいの……
[#ここで字下げ終わり]

 誰も彼も、誰も彼も、ワッハ! ワッハ! あゝ地球よパンパンと真二つになれッ、私を嘲笑っている顔が幾つもうようよしてる。

「キングオブキングを十杯飲んでごらん、拾円のかけだ!」
 どっかの呑気坊主が、厭にキンキラ顔を光らせて、いれずみ[#「いれずみ」に傍点]のような拾円札を、ピラリッとテーブルに吸いつかせた。
「何でもない事だ!」
 私はあさましい姿を白々と電気の下に晒して、そのウイスキーを十杯けろりと呑み干した。
 キンキラ坊主は呆然と私を見ていたが、負けおしみくさい笑いを浮べて、おうよう[#「おうよう」に傍点]に消えてしまった。
 喜んだのはカフェーの主人ばかり、へえへえ、一杯一円のキングオブを十杯もあの娘が呑んでくれたんですからね……ペッペッペッだ。ツバを吐いてやりたいね。

 瞳が炎える。
 誰も彼も憎い奴ばかりだ。
 あゝ私は貞操のない女でござんす。一ツ裸踊りでもしてお目にかけましょうか、お上品なお方達、へえ、てんでに眉をひそめて、星よ月よ花よか! 
 私は野そだち、誰にも世話にならないで生きて行こうと思えば、オイオイ泣いてはいられない。男から食わしてもらおうと思えば、私はその何十倍か働かねばならない。
 真実同志よと叫ぶ友達でさえ嘲笑う。

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歌をきけば梅川よ
しばし情を捨てよかし
いづこも恋にたはむれて
それ忠兵衛の夢がたり
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 詩をうたって、いゝ気持で、私はかざり窓を開けて夜霧をいっぱい吸った。あんな安っぽい安ウイスキー十杯で酔うなんて……あああの夜空を見上げて御覧、絢爛がかゝったな、虹がかゝ[#「虹がかゝ」に傍点]った。

 君ちゃんが、大きい目をして、それでいゝのか、それで胸が痛まないのか、貴女の心をいためはせぬかと、私をグイグイ掴んでいる。

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やさしや年もうら若く
まだ初恋のまぢりなく
手に手をとりて行く人よ
なにを隠るるその姿

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