ない、切れたがるきずな[#「きずな」に傍点]ならば此男ともあっさり別れよう……。

 窓外の名も知らぬ大樹の、たわゝに咲きこぼれた白い花に、小さい白い蝶々が群れて、いゝ匂いがこぼれて来る。
 夕方、お月様に光った縁側に出て男の芝居のせりふ[#「せりふ」に傍点]を聞いていると、少女の日の思い出が、ふっと花の匂いのように横切って、私も大きな声で――どっかにいゝ男はいないか! とお月様に怒鳴りたくなった。
 此男の当り芸は、かつて芸術座の須磨子とやった剃刀と云う芝居だった。
 私は少女の頃、九州の芝居小屋で、此男の剃刀を見た事がある。
 須磨子のカチウシャもよかった。あれからもう大分時がたつ、此男も四十近い年だ。
「役者には、やっぱり役者のお上さんがいゝんですよ。」
 一人稽古をしている、灯に写った男の影を見ていると、やっぱり此男も可哀想だと思わずにはいられない。
 紫色のシェードの下に、台本をくっている男の横顔が、絞って行くように、私の目から遠のいてしまう。

「旅興行に出ると、俺はあいつと同じ宿をとった、あいつの鞄も持ってやったっけ……でもあいつは俺の目を盗んでは、寝巻きのまゝあの男の宿へ忍んで行っていた。
 俺はあの女を泣かせる事に興味を覚えていた。あの女を叩くと、まるで護謨のように弾きかえって、体いっぱい力を入れて泣くのが、見ていてとてもいゝ気持だった。」
 二人で縁側に足を投げ出していると、男は灯を消して、七年も連れ添っていた別れた女の話をする。
 私は圏外に置き忘れられた、一人の登場人物だ、茫然と夜空を見ていると、此男とも駄目だよ……あまのじゃく[#「あまのじゃく」に傍点]がどっかで哄笑している。

 私は悲しくなると、足の裏がかゆくなる。一人でしゃべっている男のそばで、私はそっと、月に鏡をかたぶけて見た。
 眉を濃く引いた私の顔が渦のようにぐるぐる廻ってゆく、世界中が月夜のような明るさだったらいゝだろう――。
「ねえ、やっぱり別れましょうよ、何だか一人でいたくなったの……もうどうなってもいゝから一人で暮したい。」
 男は我にかえったように、太い息を切ると涙をふきちぎって、別れと云う言葉の持つ一種淋しいセンチメンタルに、サメザメと涙を流して私を抱こうとする。
 これも他愛のないお芝居か、さあこれから忙がしくなるぞ、私は男を二階に振り捨てると、動坂の町へ走って出た。
 誰も彼も握手をしましょう、ワンタンの屋台に、首をつっこんで、まず支那酒をかたぶけて、私は味気ない男の接吻を吐き捨てた。

 四月×日
「じゃあ行って来ます。」
 街の四ツ角で、まるで他人よりも冷やかに、私も男も別れた。
 男は市民座と云う小さい素人劇をつくっていて、滝ノ川の小さい稽古場に毎日通っていた。

 私も今日から通いでお務めだ。
 男に食わしてもらう事は、泥を噛んでいるよりも辛い、程のいゝ仕事よりもと、私のさがした職業は牛屋の女中さん。
「ロースあおり一丁願いますッ!」
 景気がいゝじゃないか、梯子段をトントン上って行くと、しみじみ美しい歌がうたいたくなる。
 広間に群れたどの顔も、面白いフィルムだ。
 肉皿を持って、梯子段を上がったり降りたり、私の前帯の中も、それに並行して少しずゝ[#「少しずゝ」はママ]ふくらんで来る。
 どこを貧乏風が吹くかと、部屋の中は甘味しそうな肉の煮える匂いでいっぱいだ。
 だが上ったり降りたりで、いっぺんに私はへこたれてしまった。
「二三日すると、すぐ馴れてしまうわ。」
 女中頭の、髷に結ったお杉さんが、腰をトントン叩いている私を見て、慰さめてくれたりした。

 十二時になっても、此店は素晴らしい繁昌で、私は帰るのに気が気ではなかった。
 私とお満さんをのぞいては、皆住込みなので、平気で残った客にたかって、色々なものをねだっている。
「たあさん、私水菓子ね。……。」
「あら私かもなん[#「かもなん」に傍点]よ……。」
 まるで野性の集りだ、笑っては食い笑っては食い無限に時間がつぶれて行きそうで私は焦らずにはいられなかった。

 私がやっと店を出た時は、もう一時近くて、店の時計がおくれていたのか、市電はとっくになかった。
 神田から田端までの路のりを思うと、私はペシャペシャに座ってしまいたい程悲しかった。
 街の灯は狐火のように、一つ一つ消えて、仕方なく歩き出した私の目にも段々心細くうつって来た。
 上野公園下まで来ると、どうにも動けない程、山下が恐ろしくて、私は棒立ちになってしまった。
 雨気を含んだ風が吹いて、日本髪の両鬢を鳥のように羽ばたかして、私はしょんぼり、ハタハタと明滅する仁丹の広告灯にみいっていた。
 どんな人でもいゝから、山下を通る人があったら、道連れになってもらおう……私はぼんやり広小路を見た。
 こんな
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