たあの姿、きめの柔かい桃色の肌、黒髪、あの女はまだ処女であった。
 何だって、最初のペエセ[#「ペエセ」はママ]をそんな、浮世のボオフラのような男にくれてやってしまったんだろう……愛らしい首を曲げて、
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春は心のかはたれに……
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 私に唄ってくれたあの少女が……四十二の男よ呪ろわれてあれ!

「林さん書留めですよッ!」
 珍らしく元気のいゝ叔母さんの声に、梯子段に置いてある日本封筒をとり上げると、時事の白木さんからの書留め。
 金弐拾参円也! 童話の稿料。
 当分ひもじいめをしなくてすむ。胸がはずむ、狂人水を呑んだようにも。でも何か一脈の淋しい流れが胸にあった。
 嬉しがってくれる相棒が、四十二の男に抱かれている。

 白木さんの手紙。
 いつも云う事ですが、元気で御奮闘を祈る。

 私は窓をいっぱいあけて、上野の鐘を聞いた。晩は寿司でも食べよう。
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   酒屋の二階

 十二月×日
「飯田がね、鏝でなぐったのよ……厭になってしまう……。」
 飛びついて来て、まあ芙美子さんよく来たわ! と云ってくれるのを楽しみにしていた私は、長い事待って、暗い露路からショボショボ出て来たたい子さんを見ると、自動車や、行李や、時ちゃんが、非常に重荷になって、来なければよかったんじゃないかと思えた。
「どうしましょうね、今さらあのカフェーに逆もどりも出来ないし、少し廻って来ましょうか、飯田さんも、私に会うのバツが悪るいでしょうから……。」
「えゝ、ではそうしてね。」
 私は運転手の吉さんに行李をかついでもらうと、酒屋の裏口の薬局みたいな上りばなに転がしてもらって、今度は軽々と、時ちゃんと二人で自動車に乗った。
「吉さん! 上野へ連れて行っておくれよ。」
 時ちゃんは、ぶざまな行李がなくなったので、キッキッとはしゃぎながら、私の両手を振った。
「芙美ちゃん! 大丈夫かしら、たい子さんって人、貴女の親友にしちゃあ、随分冷たい人ね、泊めてくれるかしら……。」
「大丈夫よ、あの人はあんな人だから、気にかけないでもいゝのよ。大船に乗ったつもりでいらっしゃい。」
 二人は、でもおのおのの淋しさを噛み殺していた。
「何だか心細くなって来たね。」
 時ちゃんは淋しそうに涙ぐんでいた。

「もうこれッ位でいゝだろう、俺達も仕事しなくちゃいけないから。」
 十時頃だ、星がチカチカ光っていた。
 十三屋の櫛屋のところで、自動車を止めてもらうと、時ちゃんと私は、小さい財布を出しあった。
「街中乗っけてもらったんだから、いくらかあげなきゃあ……。」
 吉さんは、私達の前に汚れた手を出すと、
「馬鹿! 今日のは俺のセンベツだよ。」
 吉さんの笑い声が大きかったので、櫛屋の人達もビックリしてこっちを見ていた。
「じゃ何か食べましょう、私の心がすまないから。」
 私は二人を連れると、広小路のお汁粉屋にはいった。吉さんは甘いもの好きだから。
 ――ホラお汁粉一杯上ったよ!
 ――ホラも一ツあとから上ったよ!
 お爺さんのトンキョウな有名な呼び声にも今の淋しい二人には笑えなかった。
「吉さん! 元気でいてね。」
 時ちゃんは吉さんの鳥打ち帽子の内側をクンクンかぎながら、子供っぽく目をキロキロさせていた。

 歩いて本郷の酒屋へ帰えった時は、もう十二時近かゝった。
 夜のカンカンに冷たい舗道の上を、グルグル湯気にとりまかれた。支那蕎麦屋の灯が通おっているきりで、二人共沈黙って白い肩掛を胸にあわせた。

 二階に上って行くと、たい子さんはいなくて、見知らない紺がすりの青年が、火のない火鉢に、しょんぼり手をかざしていた。
 恋人かな……私は妙に白々とした空間をみやっていた。寒い。歯がガチガチふるえる。
「たい子さん帰えられなければ寝られないの?」
 時ちゃんは、私の肩にもたれて、心細げに聞く。
「寝たっていゝのよ、当分こゝにいられるんだもの、蒲団出してあげるよ。」
 押入れをあけると、プンと淋しい一人ぐらしの匂いをかいだ。たい子さんだって淋しいんだ……大きなアクビにごまかして、袖で瞳をふくと、うすいたなの下に時ちゃんをねせつけた。
「貴女は林さんでしょう……。」
 その青年はキラリと眼鏡を光らせて私を見た。
「僕山本虎造です。」
「あゝそうですか、たいさんに始終聞いてました。」
 なあんだ、しびれの切れた足を急に投げだすと、寒いですねと云う話からほぐれて来た。
 色々話していると、段々この青年のいゝ所がめにたって来る。
 ――私は一生懸命あいつを愛しているんですが……。
 山本さんは涙ぐむと、火鉢の灰をかきならしていた。
 たい子さんは幸福だなあ……私は別れて間もない男の事を思った、あんなに私をなぐっていたあの男に、この山本さ
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