仕方がなかった、別れた男との幾月かを送った此部屋の中に、色々な幻が泳いでいて私をたまらなくした。
 ――引越さなくちゃあ、とてもたまらない。私は机に伏さったまゝ郊外のさわやかな夏影色「#「夏影色」はママ]を、グルグル頭に描いてみた。
 雨の情熱はいっそう高まって来た。

「僕を愛して下さい、だまって僕を愛して下さい!」
「だからだまって、私も愛しているではありませんか……。」
 せめて手を振る事によってこの青年の胸が癒されるならば……。
 私はもう男に放浪する事は恐ろしい。貞操のない私の体だけど、まだどこかに、一生を託す男が出てこないとも限らない。
 でも此人は、新鮮な血の匂いを持っている。厚い胸・青い眉・太陽のような瞳。あゝ私は激流のようなはげしさで、二枚の唇を、彼の人の唇に押しつけてしまった。

 六月×日
 淋しく候。
 くだらなく候。
 金が欲しく候。
 北海道あたりの、アカシアのプンプン香る並樹舗を、一人できまゝに歩いてみたい。

「起きましたか!」
 珍らしく五十里さんの声。
「えゝ起きてます。」
 日曜なので、五十里さんと静栄さんと、吉祥寺の宮崎さんのアメチョコハウスに行く。夕方ポーチで犬と遊んでいたら、上野山と云う洋画を描く人が遊びに来た。私は此人と会うのは二度目だ。
 私がおさない頃、近松さんの家に女書生にはいってた時、此人は茫々とした姿で、牛の画を売りに来た事がある。子供さんがジフテリヤで、大変佗し気な風才[#「風才」はママ]だった。靴をそろえる時、まるで河馬の口みたいに靴の底が離れていた。私は小さい針を持って来ると、そっと止めておいてあげた事がある。
 きっと気がつかなかったのかも知れない。
 上野山さんは漂々と酒を呑みよく話した。
 夜、上野山氏は一人で帰って行った。

[#ここから2字下げ]
地球の廻転椅子に腰を掛けて
ガタンとひとまわりすれば
引きずる赤いスリッパが
片方飛んでしまった

淋しいな……
オーイと呼んでも
誰も私のスリッパを取ってはくれぬ
度胸をきめて
廻転椅子から飛び降り
飛んだスリッパを取りに行こうか

臆病な私の手はしっかり
廻転椅子にすがっている
オーイ誰でもいゝ
思い切り私の横面を
はりとばしてくれ
そしてはいてるスリッパも飛ばしてくれ
私はゆっくり眠りたい
[#ここで字下げ終わり]
 落ちつかない寝床の中で、私は
前へ 次へ
全114ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング