にも辛い思いをして、私はあいつに真実をつくさなければならないのだろうか? 不意にハッピを着て自転車に乗った人が、さっと煙のように過ぎた。
何もかも投げ出したいような気持で、
「貴方は八重垣町の方へいらっしゃるんじゃあないんですかッ!」
と私は叫んだ。
「えゝそうです。」
「すみませんが、田端まで帰るんですけど、貴方のお出でになるところまで道連れになって戴けませんでしょうか?」
今は一生懸命、私は尾を振る犬のように走って行くと、その職人体の男にすがった。
「使いがおそくなったんですが、もしよかったら自転車にお乗んなさい。」
もう何でもいゝ私はポックリの下駄を片手に、裾をはし折ってその人の自転車の後に乗せてもらった。
しっかりとハッピの肩に手を掛けて、この奇妙な深夜の自転車乗りの女は、サメザメと涙をこぼした。
無事に帰れますように……何かに祈らずにはいられなかった。
夜目にも白く、染物とかいてある、ハッピの字を見て、ホッと安心すると、私はもう元気になって、自然に笑い出したくなった。
根津でその職人さんに別れると、又私は漂々とどゝいつを唱いながら路を急いだ。
品物のように冷い男のそばへ……。
四月×日
国から、汐の香の高い蒲団を送って来た。
フカフカとしたお陽様に照らされた縁側の上に、蒲団を干していると、父様よ母様よと口に出して唱いたくなる。
今晩は市民座の公演会、男は早くから、化粧箱と着物を持って出かけてしまった。
私は水をもらわない植木鉢のように干からびた情熱で、キラリキラリ二階の窓から、男のいそいそとした後姿を見てやった。
夕方四谷の三輪会館に行くと、もういっぱいの人で、舞台は例の剃刀だった。
男の弟は目ざとく私を見つけると、パチパチと目をまばたきさせて、――姉さんはなぜ楽屋に行かないの……人のいゝ大工をしている此弟の方は、兄とは全く別な世界に生きている人だった。
舞台は乱暴な夫婦喧嘩だ。
おゝあの女だ、いかにも得意らしくしゃべっているあいつの相手女優を見ていると、私は始めて女らしい嫉妬を感じずにはいられなかった。
男はいつも着て寝る寝巻きを着ていた。今朝二寸程背がほころびていたのを私はわざとなおしてやらなかった。
一人よがりの男なんてまっぴらだよ。
私はくしゃみを何度も何度もつゞけると、ぷいと帰りたくなって、詩人の友達
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