った。
五日振りに天保山の安宿をひきあげて、バスケット一ツの漂々とした私は、もらわれて行く犬の子のように、毛布問屋に住み込む事になった。
昼でも奥の間には、ポンポロ ポンポロ音をたてゝガスの灯がついている。漠々としたオフィスの中で、沢山の封筒を書きながら、私はよくわけのわからない夢を見た。そして何度もしくじって[#「しくじって」に傍点]は自分の顔を叩いた。
あゝ幽霊にでもなりそうだ。
青いガスの灯の下でじっと両手をそろえてみると爪の一ツ一ツが黄に染って、私の十本の指は蚕のように透きとおって見える。
三時になると、お茶が出て、八ツ橋が山盛り店へ運ばれて来る。
店員は皆で九人居た。その中で小僧が六人皆配達に行くので、誰が誰やらまだ私にはわからない。
女中は下働きのお国さんと上女中のお糸さん二人。
お糸さんは昔の(御殿女中)みたいに、眠ったような顔をしていた。
関西の女は物ごしが柔らかで、何を考えているのだかさっぱり判らない。
「遠くからお出やして、こんなとこしんき[#「しんき」に傍点]だっしゃろ……。」
お糸さんは引きつめた桃割れをかしげて、キュキュ糸をしごきながら、見た事もないような昔しっぽい布を縫っていた。
若主人の一郎さんには、十九になるお嫁さんがある事もお糸さんが教えてくれた。
そのお嫁さんは市岡の別宅の方にお産をしに行っているとかで、家はなにか気が抜けたように静かだった。
夜の八時にはもう大戸を閉めてしまって、九人の番頭や小僧さん達が皆どこへひっこむのか、一人一人居なくなってしまう。
のり[#「のり」に傍点]のよくきいた固い蒲団に、のびのびといたわるように両足をのばして、じっと天井を見ていると、自分がしみじみ、あわれにみすぼらしくなって来る。
お糸さんとお国さんの一緒の寝床に、高下駄のような感じの黒い箱枕がちん[#「ちん」に傍点]と二ツならんで、お糸さんの赤い胴抜きのした長襦袢が蒲団の上に投げ出されてあった。
私はまるで男のような気持ちで、その赤い長襦袢をいつまでもみていた。しまい湯をつかっている、二人の若い女は笑い声一つたてないで、ピチャピチャ湯音をたてゝいる。
あの白い生毛のたったお糸さんの美しい手にふれてみたい気がする、私はすっかり男になりきった気持で、赤い長襦袢を着たお糸さんを愛していた。
あゝ私が男だったら世界
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