い海と
初なりの蜜柑の匂いは
その日の私を
売られて行く女のようにさぶしくしました。
[#ここで字下げ終わり]

 一月×日[#「 一月×日」は底本では「一月×日」]
 おどろおどろ[#「おどろおどろ」に傍点]した雪空だ。

 朝の膳の上は白い味噌汁に、高野豆腐に黒豆、何もかも水っぽい舌ざわりだ。東京は悲しい思い出ばかり、いっそ京都か大阪で暮らしてみよう……。
 天保山の安宿の二階で、ニャーゴニャーゴ鳴いている猫の声を寂しく聞きながら私は寝そべっていた。
 あゝこんなにも生きる事はむずかしいものか……私は身も心も困憊しきっている。
 潮たれた蒲団はまるで、魚の腸のようにズルズルに汚れていた。
 ビュン! ビュン! 風が海を叩いて、波音が高い。

 からっぽな女は私でございます……生きてゆく才もなければ、生きてゆく富もなければ生きてゆく美しさもない。
 さて残ったものは血の多い体ばかり。
 私は退屈すると、片方の足を曲げて、キリキリと座敷の中をひとまわり。
 長い事文字に親しまない目には、御一泊壱円より[#「御一泊壱円より」に傍点]と白々しく壁に張られた文句をひろい読みするばかりだった。
 夕方――ボアリボアリ雪が降った来た[#「降った来た」はママ ]。
 あっちをむいても、こっちをむいても旅の空、もいちど四国の古里へ逆もどりしようか、とても淋しい鼠の宿だ。
 ――古創や恋のマントにむかひ酒――
 お酒でも楽しんでじっとしていたい晩だ。
 たった一枚のハガキをみつめて、いつからか覚えた俳句をかきなぐりながら、東京の沢山の友達の顔を思い浮べた。
 皆自分に急がしい人ばかりの顔だ。

 ボオウ! ボオウ! 汽笛の音を聞くと、私はいっぱいに窓を引きあけて雪の夜の沈んだ港に呼びかけた。
 青い灯をともした船がいくつもねむっている。
 お前も私もヴァガボンド。
 雪々雪が降っている。考えても見た事のない、遠くに去った初恋の男が急に恋いしくなって来た。
 こんな夜だった。
 あの男は城ヶ島の唄をうたった。
 沈鐘の唄もうたった。なつかしい尾道の海はこんなに波は荒くはなかった。
 二人でかぶったマントの中で、マッチをすりあわして、お互いに見あった顔、一度のベエゼも交した事もなく、あっけない別離だった。
 一直線に墜落した女よ! と云う最後のたよりを受取ってもう七年にもなる。あの男は
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