七月×日
 青山の貿易店も高架線のかなた。二週間の労働賃金拾壱円也、東京での生活線なんてよく切れたがるものだなア。
 隣りのシンガーミシンの生徒? さんが、歯をきざむように、ギイギイ……しっきりなしにミシンのペタルを押している。
 毎日の生活断片をよく寝言にうったえる[#「うったえる」に傍点]秋田の娘さん。
 古里から拾五円ずつ送金してもらって、あとはミシンでどうやら稼いでいる、縁遠そうな娘さん、いゝ人だ。
 彼に紹介状もらって、××女性新聞社に行く。本郷の追分で降りて、ブリキの塀をくねくね曲ると、緑のペンキの脱落《はげ》た、おそろしく頭でっかち[#「でっかち」に傍点]な三階建の下宿屋の軒に、蛍程な社名が出ていた。

 まるで心天《ところてん》を流すよりも安々と女記者になりすました私は、汚れた緑のペンキも最早何でもなく思った。
 昼。
 下宿の中食をもらって舌つゞみ打つと、女記者になって二三時間もたゝない私は、鉛筆と原稿紙をもらって談話取りだ。
 四畳半に厖大な事務机が一ツ、薄色の眼鏡をかけた社長と、××女性新聞発行人の社員が一人、私を入れて三人の××女性新聞。チャチなものだ。又、生活線が切れるんじゃないかと思ったが、兎に角私は街に出た。

 訪問先きは秋田雨雀氏のところ――。
 此頃の御感想は……私は此言葉を胸にくりかえしながら、雑司ヶ谷の墓地を抜けて、鬼子母神のそばで番地をさがす。

 本郷の混々《ごみごみ》した所から此辺に来ると、何故か落ちついた気がする。二三年前の五月頃、漱石の墓にお参りした事もあったが……。
 秋田氏は風邪を引いていると云って鼻をかみかみ出ていらっした。
 まるで少年のようにキラキラした瞳、非常にエキゾチックな感じの人だ。お嬢さんは千代子さんとか云って、初めて行った私を拾年のお友達かのように話して下すった。
 厚いアルバムが出ると、一枚一枚繰って説明をして下さる。此役者は誰、此女優は誰、その中には別れた男のプロフィルもあった。
「女優ってどんなのが好きですか、日本では……。」
「私判らないけど、夏川静江なんか好きだわ。」
 私はいまだかつて、私をこんなに優さしく遇してくれた女の人を知らない。
 二階の秋田さんの部屋には黒い牛の置物があった。高村さんの作で、有島さんが持っていらっしたとか、部屋は実に雑然と、古本屋の観があった。
 談話取
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