ダボダボあふれた。
腹がへっても[#「腹がへっても」に傍点]、ひもじゅうない[#「ひもじゅうない」に傍点]とかぶり[#「かぶり」に傍点]を振っている時じゃないんだ、明日から、今から飢えて行く私達なのだ。
あゝあの拾参円はとゞいたか知ら、東京が厭になった。早くお父さんがゆとり[#「ゆとり」に傍点]をつけてくれるといゝ。九州もいゝな四国もいゝな。
夜更け、母が鉛筆をなめなめお父さんにたより[#「たより」に傍点]を書いているのを見て、誰かこんな体でも買ってくれる人はないかと思ったりした。
五月×日
朝起きたらもう下駄が洗ってあった。
いとしいお母さん!
大久保百人町のゆりのや[#「ゆりのや」に傍点]と云う派出婦会に行く。
中年の女の人が二人店の間で縫いものをしていた。
人がたりなかったので、そこの主人は、デンピョウのようなものと地図を私にくれた。行く先は、薬学生の助手だと云う。
道を歩いている時が、一番ゆかいだ。五月の埃をあびて、新宿の陸橋をわたって、市電に乗ると、街の風景が、真に天下タイヘイ[#「タイヘイ」に傍点]にござ候と旗をたてゝいるようだ。此街を見ていると、何も事件がないようだ。買いたいものがぶらさがっている。
私は桃割の髪をかしげて、電車のガラス窓でなおした。
本村町で降りると、邸町になった露路の奥にそのうちがあった。
「御めん下さい。」
大きな家だな、こんなでかい家の助手になれるか知ら……、何度もかえろうかと思いながら、ぼんやり立ちつくした。
「貴女派出婦さん! 派出婦会から、何時に出たって電話がかゝって来たのに、おそいので、坊ちゃん怒ってらっしゃるわ。」
私が通されたのは、洋風なせまい応接室。
壁には、色の褪せたミレーの晩鐘の口絵のようなのが張ってあった。面白くもない部屋だ。腰掛けは得たいが知れない程ブクブクしていた。
「お待たせしました。」
何でも此男の父親は日本橋で薬屋をしているとかで、私の仕事は薬の見本の整理で、わけのない事だった。
「でもそのうち、僕の方の仕事が急がしくなると、清書してもらいたいのですがね、それに一週間程したら、三浦三崎の方へ研究に行くんですが来てくれますか。」
此男は廿四五かな、私は若い男の年が、ちっとも判らないので、じっと脊の高いその人の顔を見ていた。
「いっそ派出婦の方を止して、毎日来ません
前へ
次へ
全114ページ中78ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング