、張りこんで隆吉が買つてやつた絹の沓下のかつかうも、まるで白人の女のやうにすんなりとしてゐる。ビロードの紅いざうり底の靴がなまめかしい感じだつた。
伊織は案外若々しい男で、背もぐんと高く、色白な廣い額が立派であつた。何よりも肉づきのあつい立派な體格が堂々としてゐた。大柄な妙子とはいゝとりあはせで、あまりによく似合ひすぎた一組であることに隆吉は内心非常な滿足を感じた。
青年はいゝものだと思つた。街でみかける弱々しい男とはかつぷくが違つてゐて、頼もしい風貌である。それに、伊織は、二十代の青年とは違つて、一度は女房もゐたし子供もあると云ふ男だけに非常に落ちついて、話も現實的で、常識もちやんと心得てゐた。何時の間にか、窓ぎはには、妙子の日常つかつてゐた小さい姫鏡臺も置いてある。
妙子がきびんに牛肉と野菜を買つて來てスキヤキの用意をした。何も彼もが、隆吉の昔の新世帶の思ひ出ならざるはない。看護婦をしてゐた糸子との世帶の持ちはじめが、またこゝにむしかへされてゐる。隆吉は酒に醉ひ、この若い者同志の心づくしに出あひ滿足であつた。――女の子は六つになるのださうである。細君は伊織の郷里の女で肺で亡くなつたのだと云つた。隆吉は同病相哀れむで、似たやうな夫婦もあるものだと思つた。伊織も醉つて、默つて妙子と事を運んだのはきまりが惡いのだと云つた。
サラリーは二千七百圓ほど取つてゐるのだけれども、毎月、子供の方へ五百圓づつ送らなければならないので、それだけ御承知下さいともはつきり云ふのである。隆吉は瞼がうるんで來るやうな氣持だつた。その正直さが得がたいものだとも思へた。
隆吉は、妙子を伊織のアパートにおくり、戻つて來るとすぐ亮太郎に宮内の話をすゝめて貰ひたい由をつげた。裏口に空地があるので、三疊をたたまし[#「たたまし」はママ]にかゝつた。ミシン二臺位と女の荷物はそこへはいるつもりであつた。建ましの許可もおり、大工もきまり、壁をこはしにかゝつて數日たつても、亮太郎のところからは何の返事もない。
妙子は毎日元氣よく夕方から崩浪亭へ通つて來た。
「お父さん、急におしやれになつたのね」
妙子は父をからかつたりしてゐる。
隆吉もまんざら惡い氣もしなかつたが、亮太郎から返事のないのが何となく不安であつた。――自分で出むいて行くのもきまりが惡かつたので、妙子を河邊のところへ使ひに出してみた。夜になつて戻つて來た妙子は、うかない顏つきで、
「お父さん、宮内さん駄目よ。あのひと、變なひとだわ……年下の好きなひとがあつたンですつて、急に何とも云はないで、横須賀へ行つちやつたンだつて……そのひとゝは一緒にゐないンだつて……でもね、宮内さん、お父さんの話は氣が變つたのよ。どうも、調子がよすぎるとは思つたけど、あの位の女のひとは、かへつて、娘よりもあつかひにくいものだつて河邊さんのをぢさん云つてたわ。迷ひの深いひとは、貰つてもお父さんが不幸だつて思つたから、私、お父さんもあきらめるでせうから、ことわつておいて下さいつて云つてきたの。をぢさん、またいゝひとがみつかつたらお世話しますつて、明日あたりうかゞふつて云つてましたわ」
隆吉は内心おだやかではなかつた。すつかり貰ふつもりで、愉しい夢を描いてゐた。鷄も二羽とも店につかふつもりで、新しい妻の寢ざめの心づかひまでしてゐた自分の氣持がみじめになつて來た。粗末な木口ではあつたが、木の香の匂ひが、いまでは不安をさそふ匂ひは[#「匂ひは」はママ]かはつた。
隆吉は、亮太郎にきいた横須賀の宮内の住居を尋ねてみべるく、思ひきつて、今日は東京驛まで來たのであつたが、幾度となく出這いりしてゐる電車や汽車のものすごい音に氣持が重く屈して來るのを感じた。
はずみ[#「はずみ」に傍点]だけで、この老人をつかまへて見合ひをさせられたのはやりきれない事だが、いまさら女を追つたところで、詮もないことであるに違ひない……。
暫くホームに立つて、賑やかな乘り降りの人の群をみてゐると、隆吉はしみじみと孤獨を感じた。いまさら實盛氣取でもあるまい。
このまゝ居酒屋崩浪亭の親爺で終ることもいゝではないかと、ふつと四圍をみ廻した。十一月の寒々とした氣配が、かうした草木のない驛のなかにも、ひそやかにたゞようてゐる。
乘る人降りる人、みなそれぞれに營みがある。隆吉は、また、明日から.鷄の時を告げる聲をきかなければならないだらう。それも亦まんざら愉しくない事はない……。
人間の心と云ふものは、いつまでたつても、かうしたはずみ[#「はずみ」に傍点]を食つてどうにもならぬほど氣持を追ひつめる時があるものだと、隆吉は人生五十年の自分の年齡の、燭火の佗しさに思ひ到り、冷たくなつた靴のさきをふみしめて省線のホームの方へ降りて行つた。
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