がした。いゝところと無雜作に云はれてみると、隆吉は、急に、妙子をあて[#「あて」に傍点]にして來てゐるやうな客の顏が浮んだ。
あれでもない、これでもないと、一人々々のなじみの客を思ひ浮べてみる。いつたい、いゝところと云ふのは何處の誰のところであらうか……。不意にむほん[#「むほん」に傍点]をおこされたやうで、隆吉はしやくぜん[#「しやくぜん」に傍点]としない。
「學校の友達にでも遇つたのかね」
わざと逆手を考へて、隆吉が天井をむいたまゝたづねた。大きな物音で鼠がさわぎたててゐる。この界隈は馬鹿に鼠の多いところで、晝間でも平氣で臺所なぞに現はれて來る。
「うゝん、女のひとぢやないの、男のひとなのよ」
「ふうーん」と隆吉は唸つた。
まだ子供だと思つてゐた年頃が、急にぐつと大人になりすました感じである。
「誰だ? 店に來るひとかね?」
「一度きりしか來ないのよ。滿洲にゐたひとなの……道であつたの……」
「たつた一度や二度遇つて、お前に來いと云ふのか?」
「あら、もう、妙子、何度も遇つてゐるのよ。昨日も一緒に遊んだのよ」
なるほど云はれてみると、連日のやうに、何處かに出掛けてゐなくなる時がある。別に商賣にさしさはりのある程の長い時間ではなかつたので、隆吉は氣にもとめなかつたが、その時間が、男とあひびきの時だつたのかと、隆吉は肚の底でうーんと唸るばかりだ。
「お前の年頃ではまだ早いと思ふがね。どんな人物か知らんが、早く世帶を持つて苦勞をする事も考へもンだな。第一、經濟と云ふものがなりたつまい。――若い時は夢をみがちだ。別にどうしろと云ふわけぢやないが、お前のためを思ふから、お父さんは心配するンだよ」
妙子はくるりと腹這ひになつて、枕に頬杖を突くと、
「大丈夫よ。滿洲で妙子が死んだと思へばいいぢやアないの。部屋をみつけるつたつて、お父さん大變なのよ。いま、小さい部屋一つ借りるにしても何萬圓つて權利金がいるンですもの、宮内さんにはこゝへ來て貰つて、私がこゝへ通つて來るわ。私に月給をくれゝばいゝわ。さうすれば、私とても助かるンだもの……」
隆吉は、天井をむいたまゝ一言の言葉もない。妙子はぼんやりとした表情で、何かを考へてゐるらしかつたが、やがて口笛を吹き始めた。
「相手の男は何をするひとだね?」
隆吉がたづねた。
「新聞記者。新京で一寸知つてゐるのよ。奧さんと子供があつたンだけど、奧さんは死んぢやつて、女の子は親類へあづけてあるンだつて、アパートに獨りでゐるのよ。この近くなの……年は三十五ですつて……でもとても若く見えるひとなのよ。何處かお父さんの若い時に似てるひとよ」
隆吉はをかしくなつて眼をつぶつた。なるほど、わが娘ながら大したものである。躯の關係があるのかないのか、いゝ年をしてたづねてみるのもきまりが惡かつたけれども、そこまで話がついてゐる以上は、只事ではないにきまつてゐる。死んだと思へと云はれてみると、それもさうだと、隆吉は辛かつた。一年あまりの滿洲での苦勞を思ひ出さずにはゐられない。
「始めは口の惡いひとで、おこりつぽい人だつたンだけど、いまでは心の優しい人だつて判つたのよ。――お父さんをいゝひとだつて云つたわ。とても純情で、このごろは私の云ふとほりになるの……」
ほゝう……隆吉はまた眼を開けて天井を見た。小袋と小娘は油斷がならぬとはよく云つたものだと、その時期が來れば、自然に花粉を呼ぶしくみになつてゐる人間の世界が隆吉には面白くもある。娘と二人きりで働き、時時は昔がたりをして世をはかなむ愚はもうやめた方がよいのであらう。妙子は妙子なりに、この心細い親子の關係をたちきつて、自分のよりどころや、前途を考へるのも不思議はない。――急に宮内はなの細い眼もとを思ひ出した。
「お前とは、大分としが違ふね」
「えゝ、時々、そのひと笑ふのよ。お半長衞門だつて……お半長衞門つてなんだか知らないけど、そんな事どうでもいゝのよ。一緒にゐるのが幸福なンだもの……。少々ひもじい思ひをしても二人とも何ともないの。だから、私に月給をくれゝば、私はそこから通つて來て、みんなにじやんじやん酒を飮まして、崩浪亭をうんとまうけさしてあげるの……。お父さんだつて、宮内さんを貰へば幸福になるわ。もう鷄の聲をきかなくつても、宮内さんが慰さめてくれるでせう?」
妙子はくすりと笑つた。鷄の聲をきくと、お母さんの事を思ひ出すねと、口ぐせに云つてゐたのを妙子はちやんと覺えてゐたのである。
二三日して、とぼしい手まはりのものを持つて妙子は隆吉におくられて、伊織《いおり》のアパートに行つた。伊織はちやんと部屋の中を片づけて待つてゐた。妙子は宮内さんのつくつてくれた灰色のスーツを着こんで、いつになくめかしこんでゐた。大柄なせゐかはたち位にはみえた。腰つきもふくらみ
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