く、私は身分不相応に貰った印税で、その秋、すぐ支那へ二ヶ月の予定で旅立って行きました。大いに考えるつもりでもあったのです。旅の間中、小説を書きたいと思いました。
 昭和六年三月、私は処女作として『風琴と魚の町』と云うのを改造へ書かせて貰いましたが、大人の童話のようなものでした。小説の形式では、その年の正月から約二ヶ月、東京朝日新聞の夕刊に『浅春譜』と云うのを発表していましたが、大変失敗の作でした。
 プロレタリア文学はますますさかんでした。私は、孤立無援の状態で、自分の一切に絶望していました。仕事してゆく自信、生きてゆく自信がなくなり、どこか外国へ行ってみたくて仕方がありませんでした。
 旧作、『清貧の書』の書きなおしにかかり、その年の改造十月号に清貧の書を送り、雑文でよせあつめた金を持って、私はシベリア経由で、昭和六年|仏蘭西《フランス》へ旅立って行きました。なかなか、この当時、私は行動主義でもあったわけです。再び日本へは帰って来られないと思いました。シベリアのさまざまな雪景色を眺めて、外国でのたれ死にするかも知れないと、本気でそんなことを考えていました。巴里《パリ》に着いてからも私から雑文書きの仕事は離れないのです。着くと早々フランが高くなった為に、私は毎日々々アパルトマンの七階の部屋で雑文を書き、巴里へ送って来た金を逆に日本の両親のもとへ送らなければならなかったのです。巴里では栄養不良の一種で鳥眼《とりめ》になってしまいました。夜分になると視力が衰え、何をする勇気もないのです。
 眼を病《や》んで寝ている時、渡辺一夫《わたなべかずお》氏たちにお見舞を受けたのですが、その時のうれしさは随分でした。欧洲にいる間、私は一つの詩、一つの小説も書きません。昭和七年の正月、倫敦《ロンドン》に渡ってゆきましたが、ここでは寒さに閉じこめられて、落ちついて読書することが出来ました。ケンシントン街の小さいパンションにいましたが、毎日部屋にこもってばかりいました。詩を沢山読みました――ガルスワアジイと云うひとの、「生とは何か? 水平な波の飛び上ること、灰となった火のぱっと燃えること、空気のない墓場に生きている風! 死とは何か? 不滅な太陽の沈むこと、眠らない月のねむること、始まらない物語りの終局《おわり》!」このような詩に、私は少女の頃、ああそはかのひとかと聞いた日を憶い出して、心
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