りませんのに、改造社から、稿料を貰った時はひどく身に沁《し》みる思いでした。――女人芸術には、毎月続けて放浪記を書いておりましたが、女人芸術は、何時か左翼の方の雑誌のようになってしまっていましたので、一年ほど続けて止めてしまいました。平林たい子さんは、文芸戦線から押されてその時はそうそうたる作家になっていました。女人芸術に拠っていました時、中本たか子さんや、宇野千代《うのちよ》さんを知りました。宇野千代氏は、当時、私の最も敬愛する作家でした。
 この頃から、私は図書館を放浪しはじめ上野の図書館へは一年ほど通いました。此様に私にとって愉しい時代はありませんでした。眼は近くなり乱視の状態にまでなりましたが、私は毎日図書館通いをして乱読暴読しました。ここでは岡倉天心《おかくらてんしん》の茶の本とか唐詩選、安倍能成《あべよししげ》と云う方のカントの宗教哲学と云ったぜいたく[#「ぜいたく」に傍点]な書物まで乱読しました。この頃から小説を書いてみたいと思い始めましたが、長い間雑文にまみ[#「まみ」に傍点]れていましたので、私の筆は荒《すさ》んでいて、二、三枚も書き始めると、自分に絶望して来るのです。詩から出発していましたせいか、詩で云えば十行で書き尽くせるような情熱を、湯をさます[#「さます」に傍点]ようにして五十枚にも百枚にも伸ばして書く小説体と云うものが大変苦痛だったのです。段々、詩は人に読まれなくなっていましたが、詩へ向う私の心は烈《はげ》しいものでした。
 私は女友達の松下文子と云う方から五拾円貰って、牛込《うしごめ》の南宋書院の主人の好意で『蒼馬を見たり』と云う詩集を出しました。松下文子と云う人は、私にとっては忘れる事の出来ない友人なのです。いまは北海道の旭川に帰り、林学博士松下真孝氏と結婚されているのですが、私の詩集も、このひとの友情がなかったら出版されていなかったのでしょう。
 さて、詩集を出版したものの私の文学についての目標は依然として暗澹たるものでした。私の放浪記は好評悪評さまざまで、華々しい左翼の人たちからはルンペンとして一笑されていました。昭和五年改造社から、新鋭叢書と云った単行本のシリイズが出ましたが、その中へ、私の放浪記も加えられたのです。改造社へ放浪記の厚い原稿を持ち込んで二年目に、陽《ひ》の目を見ることが出来たのですが、そのときは頭が痛いほどうれし
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