つ」に傍点]すれば怒るだろう?」
「誰がや?」
「人の足折って、知らん顔しちょるもん[#「もん」に傍点]がよオ」
「金を持っちょるけに、かなわんたい」
「階下のおじさんな、馬鹿たれか?」
「何ば云よっとか!」

 父は風琴と弁当を持って、一日中、「オイチニイ オイチニイ」と、町を流して薬を売って歩いた。
「漁師町に行ってみい、オイチニイの薬が来たいうて、皆出て来るけに」
「風体《ふうてい》が珍しかけにな」

 長いこと晴れた日が続いた。
 山では桜の花が散って、いっせいに四囲《あたり》が青ばんで来た。
 遠くで初蛙《はつがえる》も啼《な》いた。白い除虫菊《じょちゅうぎく》の花も咲《さ》いた。


 7 「学校へ行かんか?」
 ある日、山の茶園で、薔薇《ばら》の花を折って来て石榴の根元に植えていたら、商売から帰った父が、井戸端《いどばた》で顔を洗いながら、私にこう云った。
「学校か? 十三にもなって、五年生にはいるものはなか[#「なか」に傍点]もの、行かぬ」
「学校へ行っとりゃ、ええことがあるに」
「六年生に入れてくれるかな?」
「沈黙《だま》っとりゃ、六年生でも入れようたい、よう読めるとじゃもの……」
「そんでも、算術はむずかしかろな?」
「ま、勉強せい、明日は連れて行ってやる」
 学校に行けることは、不安なようで嬉しい事であった。その晩、胸がドキドキして、私は子供らしく、いつまでも瞼《まぶた》の裏に浮んで来る白い数字を数えていた。
 十二時頃ででもあったであろうか、ウトウトしかけていると、裏の井戸で、重石《おもし》か何か墜ちたように凄《すさ》まじい水音がした。犬も猫も、井戸が深いので今までは墜ちこんでも嘗めるような水音しかしないのに、それは、聞き馴《な》れない大きい水音であった。
「おッ母さん! 何じゃろか?」
「起きとったか、何じゃろかのう……」
 そう話しあっている時、また水をはねて、何か悲しげな叫び声があがった。階下のおじさんが、わめきながら座敷を這っている。
「あんた! 起きまっせ! 井戸ん中へ誰か墜ちたらしかッ」
「誰が?」
「起きて、早よう行ってくれまっせ、おばさんかも判らんけに……」
 私は体がガタガタ震《ふる》えて、もう、ものが云えなかった。
「どぎゃんしたとじゃろか?」
「お前も一緒《いっしょ》に来いや、こまい[#「こまい」に傍点]者は寝とらんか
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