るために今日まで、すべての禍福の外で生きてゐたやうな氣さへされて來る。
眼を閉ぢてゐると、長い間、考へたこともない初戀の木山の顏が、瞼にちらちら浮んできた。
「お母さん、鶯つて、このぐらゐかい?」
「なアんだ、健ちやんは、まだ起きてゐたの?」
「ねえ、鶯つて、健ちやん見たことないね」
「見たことありますよ。ホウホケキヨつて鳴くぢやないの、健ちやんのは、それ、烏と間違へてるンんでせう、――そんな大きな鶯つてゐませんよ‥‥」
ふつと、ふじ子は眼をあけて、蚊帳のすみに轉がつてゐるちづ子を自分の方へ抱きよせてやつた。ちづ子は汗でべとべとした肌をしてゐたが、抱きかゝへてゐると、胸がうづくやうに、子供たちが可愛くなつてくる。豐かな田畑を持つてゐるやうな、そんな、ふくよかな氣持が湧いてくる。
スーツケースをかゝへて、汽車へ乘るのだ汽車へ乘るのだと、わめきちらしてゐた昨日の良人の姿が、いまはもう、千里も遠くへ消えてしまつたやうにはかなくなつてきて、ふじ子は、どんなことがあつても、廣太郎とは再び相逢ふやうなみれんは持つまいと決心するのであつた。
翌朝、ふじ子は子供たちの聲で眼が覺めた。
子供たちは、どんなところへ連れてゆかれても、母親が傍にゐるかぎりは、愉しさうにいろいろなものを、流れるやうに歌つてゐる。
健吉はちづ子と頭をならべて、牛乳こい、お菓子こい、ジャミパンこいとうたつてゐた。
「いやアな健ちやんねえ、おなか空いたの?」
「うん、ちいちやんだつておなか空いたよ」
「ちいちやん、おとつぷ[#「おとつぷ」に傍点]たべるの‥‥」
四つになるちづ子が、健吉をまたいで、ふじ子のふところへ飛びついてきた。彈力のある、子供の柔らかい重みが、ふじ子にはこれが幸福な有力とでも云ふのだと、謙讓なおもひだつた。
顏を洗つて、まづい朝御飯をすませると、ふじ子は、三年前にきた木山の年始状を頼りに、宿から、木山の勤め先へ電話をかけてみた。
「あゝ、木山さんでゐらつしやいますか、二三ヶ月前からお躯がわるくて、お休みでゐらつしやいますが‥‥」
ふじ子は、夢かかすみのやうに遠く去つた木山に對して、いまごろ電話をかけたりする自分ををかしい女心だと苦笑しながらも、木山の下宿先をたづねてみずにはゐられなかつた。
木山は胸をわるくして、千葉の稻毛海岸に保養に行つてゐると云ふことである。宿の名も教はり、ふじ子は、晝近くになつて、木山へのさゝやかな土産物をたづさへ、二人の子供を連れて兩國驛へ行つた。
何の自制もない、たゞ足まかせな暗澹とした氣持だつた。
4
海風館と云ふ旅館に、木山は滯在してゐた。松林のなかをぬけて、砂地の丘に、明治時代の遺物のやうな、色硝子の雨戸のはいつた古い旅館が木山のゐる宿屋だつた。
木山は吃驚してふじ子たちを迎へた。
「よくわかりましたねえ‥‥」
木山は青年の時よりずつと痩せてはゐたが、少しも病人らしくなかつた。八年の星霜が、二人の間にあつたことを、ふじ子は老けた木山を見て、始めて無量な氣特になつてゐる。木山は眼鏡をかけてゐた。聲音だけは昔のとほりだつたけれど、ふじ子は目の前に立つてゐる木山を、昔の木山とはどうしても思へなかつた。
木山にしたところで、これが、あの當時のふじ子なのかと思つてゐるに違ひない。子供たちは生れて始めて海を見るので、しつかりと、ふじ子の袖につかまつてゐた。海を見晴らした、二階の木山の部屋へ上つてゆくと、子供たちは、砂でざらざらした廊下を、二人とも四ツ這ひに這つて歩いてゐる。
「始めて海をみせたり、その上、この人たちは、いままで、二階家に住んだことがないものですから、怖くて這つて歩くんですわ‥‥」
ふじ子がそつと辯解をした。
砂地をかつと照りかへすやうな暑い日だつたけれど、海からは涼しい風が吹いてきた。風が吹きつけるたび、ざあつと雨のやうな音をたてて松林の梢が鳴つた。
「とても涼しいところですね、――お躯はいかゞでございますか?」
「躯はすつかりいゝのですが、こゝが氣にいつてしまつて、東京へ歸りたくなくなつて弱つてゐます」
木山の後の床の間には、古風な文字で、佛法の海に入らんには、信を根本と爲し、生死の河を渡らんには、戒を船筏と爲す。と書いた軸がさがつてゐる。生死の河を渡らんには‥‥昨夜の新宿の宿のおもひが、ふじ子の胸にぐつとせりあげてきた。
よく眠つてゐる子の寢姿をみて、もうこのまゝこの子供たちと、こゝで自殺をしてしまはうかと思つた。――子供たちは、いつの間にか二階にも海の景色にもなれてしまつたとみえて、今度は、宿の廣い梯子段を上つたり降りたりして遊んでゐる。
「ふじ子さんもかはりましたねえ‥‥」
「えゝ、でも、八年もたてば、いゝかげん、女つてかはりますわ」
ふじ子は、木山からみて、さだめし自分は老いつかれた女にかはつてゐるのだらうと、何となく、木山がまぶしかつた。
木山はぬるい茶をつぎながら、ふじ子の身上話をきいてゐる。
「男つて、結婚生活にも、自分の職業にも飽いて來ると、まるで、手がつけられないンですもの。木山さんにも、そんなお氣持ありますかしら?」
「さうね。ある年齡に達した時、そんなおさきまつくらな氣持は、必ずありますね。女のひとにはわからないでせうが――三十をすぎて來ると、男も、本當に仕事が面白くなつてきますからねえ。仕事に不滿や懷疑の出て來るのも、僕たちの年齡ですよ。あなたの云ふやうな仕事に飽きる氣持ぢやなくて、仕事に慾を持つた時の中だるみだと僕は思ふンです。女のひとが出來たところで、それは長つゞきするものぢやないと思ふンだが。あなたや、子供たちを忘れ果てて去つてゆかれたのだとは、どうも思へないですね」
「さうでせうか‥‥でも私、どうしてもどんなことがあつても、再び前どほりに家庭を持つと云ふことはとても出來ないと思ひますわ。潔癖とでも云ふのでせうかしら。もう、いままでの生活を二度くりかへすのはこりごりですの‥‥」
「子供さんはどうします?」
「子供は私が養育するより仕方がないとおもつてゐます。兄の方を、父親へかへしてやらうかともおもひましたけれども、いざとなると、可愛くて手離すことが出來ませんし‥‥」
「ぢやア、生活はどうします?」
「えゝ、それなンですけれど、どうしたらいゝかと思つてゐますの。二十八にもなつて、しかも子供まであるンですもの、おいそれと、いゝ職業もみつかりつこはありませんし、いつそ、親子心中でもしようかとおもつたりしましたわ」
「ぶつさうですね、――まア、四五日、こゝにゐらつしやい。そしてよく考へるンですよ。死ぬることはいつでも出來ます。最後の瞬間まで、元氣を持たなくちやいけませんね」
娘の頃よりも落ちついてゐて、ふじ子の胸や腰の肉づきが、木山には變にくすぐつたい感じだつた。ふじ子は、このごろ、何もたのしいことがないから、腹いせに煙草を喫ひ出してみたのだと、袂から「朝日」を出して一本口に咥へた。
煙草を唇に咥へた手つきも妙に自然だつたし、白粉氣のない、白い皮膚が、さつぱりとしてゐる。木山はこの女が四五日ゐたところで不快ではないとおもひ、
「まア、ゆつくりしてゐらつしやい、僕は子供好きだし、賑やかでいゝ」
と云つた。
「えゝ、ありがたうございます‥‥木山さんはその後、御結婚なすつてゐらつしやいますの?」
「僕ですか、さア貰つたやうなこともあるし、貰はないやうなところもあるし、と云ふところですかな。――いまは獨りものですよ」
5
廣太郎は郷里の姫路へかへつたが、四五日は親類の家へ出向いて酒をよばれることだけで日をおくつた。どの家からもまとまつた資金を出させるにいたらなかつた。
「わしの方こそ、あんたたちに相談をしようと思つた位だぜ‥‥千圓はおろか、百圓だつて都合はつくまい」
末弟は、小さい材木商をやつてゐたが、このごろは建築の方もおもはしくなくて、臺所向きも白々と逼塞してゐる風である。廣太郎は、無爲に十日ばかりも郷里で日を過したけれど、空想したやうな甘い考へ通りにはゆかなかつた。一萬圓もあれば、小さな工場を持つて、インキの製造をやらうと思つてゐたし、少し豐かになつたら、八重子の爲に、小綺麗な喫茶店をつくつてやつてもいゝと思つてゐたのだ。
親類のものたちは、何の前ぶれもなく郷里に戻つて來た廣太郎を不思議がつてゐたし、酒で荒んでゐる、面がはりの廣太郎に、どの家のものも何か警戒してゐる樣子があつた。――廣太郎は日を經るにしたがつて、資金調達が困難だつたし、始めのやうに、珍しがつて迎へて呉れる知人もなくなつて來ると、祖母ををがみたふして、祖母の貯金を全部おろして瓢然とまた東京へ戻つて來た。
百圓たらずの金だつたが、それでも、子供たちへ土産物を買つたりして東京へ戻つて來た。ふじ子へ會ひたいとは思はなかつたが子供たちには妙に會ひたかつた。何と云ふこともなく、歸つたら子供たちを抱いてやりたいなごやかなものを感じてゐる。
八重子にも會ひたかつたが、何よりもまづ子供に會ひたいと云ふ氣持は、廣太郎にとつては、幾年にもないことだつたらう。
平凡な家庭に馴れてしまつて、何の波瀾もなかつた日常に、こんなに、二週間近くも子供に會はないと云ふことは、廣太郎にとつては珍しいことだとも云へる。――歸心矢の如しで、廣太郎は子供に會ひたくて仕方がなかつた。そのくせ、廣太郎は、東京驛から、素直にふじ子のもとへ歸るのが億劫で、靜岡から、わざわざ八重子へ東京着の時間を電報で打つたりしておく勝手さもあつた。
東京は雨が降つてゐた。
赤煉瓦の東京驛のホームへ、汽車がすさまじい勢で這入つて行つた。帽子をあみだにかぶつて、ステッキを持ち、網棚から土産物をおろして、廣太郎は悠々と窓から首を出して見たが、ホームに八重子らしいおもかげは見えなかつた。
電報を見ないはずはないのだが、奴さん、もう店へ出てゐたのかも知れんな、廣太郎は、一寸ばかり失望した氣持で、人のまばらになつたホームを歩いていつた。
おゝ、道《だう》は形無し、か、垢《く》去りて明存《みやうそん》し‥‥だな、廣太郎は、白い飛沫をあげて降りつゞけてゐる雨のうつたうしさを眺めて肚のなかから佗しさの溜息を吐いてゐた。
四方八方にゆきくれたおもひである。
明日から、また、會社へ出てゆき、あの世界に身を屈して働くより仕方もないのだらう。人の山林を調べ、人の邸内の坪數を評價して、この鬱勃たる人生が暮れてゆくのも俺の運命かも知れない。
瀧野川へ戻つてみたが、家は鍵がかゝつてゐて誰もゐる樣子がなかつた。差配に鍵をかりてやつと家の中へ這入つたが、家の中は雜然としてゐた。玩具箱がひつくりかへつてゐたし、ハンモックも吊つたなりだつた。よほど以前から、皆さんゐらつしやらないのですよ、と隣家のものが教へてくれた。
廣太郎は、ハンモックの中へ、帽子や土産物を投げいれて、臺所に二本並んでゐるビールを座敷へ持つて來て、一人で栓をぬいてごくごく飮んだ。なまぬるくて美味くはなかつたけれど、哀しみを誘ふやうなビールの味は、廣太郎をいやがうへにも感傷的にしてしまふ。
整理好きのふじ子が、こんなに部屋の中をとりみだしてゐるのは、自分の出たあと怒つて、子供を連れて姫路へ行つたのかも知れないとおもつた。姫路へ歸つても、ふじ子の實家をたづねてやらなかつた冷さが悔いられたが、いまになつては仕方もないことだと、廣太郎は雨の中を、郵便局まで電報を打ちに行き、歸りは酒屋から酒をとどけさせるやうにして家へ戻つて來た。疊はしめつてゐてかびくさく、床の間の百合の花は、枯れてちりちりに銹びた色をしてゐた。
翌日、ふじ子の實家から、こちらには戻つてゐないが、當分、東京へは歸らぬだらう、母子共健在故安心してくれと云つた返電が來た。
廣太郎は、いつたい、ふじ子は何處へ行つたのだらうかと考へた。
雨は昨日から降りつゞいてゐる。
廣太郎は、子供をかゝへた何の取柄もない女が、いつたい二週間以上もどこをうろついてゐるのだらうと思つた。ひよいとしたら自
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