人たちは、いままで、二階家に住んだことがないものですから、怖くて這つて歩くんですわ‥‥」
 ふじ子がそつと辯解をした。
 砂地をかつと照りかへすやうな暑い日だつたけれど、海からは涼しい風が吹いてきた。風が吹きつけるたび、ざあつと雨のやうな音をたてて松林の梢が鳴つた。
「とても涼しいところですね、――お躯はいかゞでございますか?」
「躯はすつかりいゝのですが、こゝが氣にいつてしまつて、東京へ歸りたくなくなつて弱つてゐます」
 木山の後の床の間には、古風な文字で、佛法の海に入らんには、信を根本と爲し、生死の河を渡らんには、戒を船筏と爲す。と書いた軸がさがつてゐる。生死の河を渡らんには‥‥昨夜の新宿の宿のおもひが、ふじ子の胸にぐつとせりあげてきた。
 よく眠つてゐる子の寢姿をみて、もうこのまゝこの子供たちと、こゝで自殺をしてしまはうかと思つた。――子供たちは、いつの間にか二階にも海の景色にもなれてしまつたとみえて、今度は、宿の廣い梯子段を上つたり降りたりして遊んでゐる。
「ふじ子さんもかはりましたねえ‥‥」
「えゝ、でも、八年もたてば、いゝかげん、女つてかはりますわ」
 ふじ子は、木山からみ
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