と云つた。
「えゝ、ありがたうございます‥‥木山さんはその後、御結婚なすつてゐらつしやいますの?」
「僕ですか、さア貰つたやうなこともあるし、貰はないやうなところもあるし、と云ふところですかな。――いまは獨りものですよ」
5
廣太郎は郷里の姫路へかへつたが、四五日は親類の家へ出向いて酒をよばれることだけで日をおくつた。どの家からもまとまつた資金を出させるにいたらなかつた。
「わしの方こそ、あんたたちに相談をしようと思つた位だぜ‥‥千圓はおろか、百圓だつて都合はつくまい」
末弟は、小さい材木商をやつてゐたが、このごろは建築の方もおもはしくなくて、臺所向きも白々と逼塞してゐる風である。廣太郎は、無爲に十日ばかりも郷里で日を過したけれど、空想したやうな甘い考へ通りにはゆかなかつた。一萬圓もあれば、小さな工場を持つて、インキの製造をやらうと思つてゐたし、少し豐かになつたら、八重子の爲に、小綺麗な喫茶店をつくつてやつてもいゝと思つてゐたのだ。
親類のものたちは、何の前ぶれもなく郷里に戻つて來た廣太郎を不思議がつてゐたし、酒で荒んでゐる、面がはりの廣太郎に、どの家のものも何か警戒してゐる樣子があつた。――廣太郎は日を經るにしたがつて、資金調達が困難だつたし、始めのやうに、珍しがつて迎へて呉れる知人もなくなつて來ると、祖母ををがみたふして、祖母の貯金を全部おろして瓢然とまた東京へ戻つて來た。
百圓たらずの金だつたが、それでも、子供たちへ土産物を買つたりして東京へ戻つて來た。ふじ子へ會ひたいとは思はなかつたが子供たちには妙に會ひたかつた。何と云ふこともなく、歸つたら子供たちを抱いてやりたいなごやかなものを感じてゐる。
八重子にも會ひたかつたが、何よりもまづ子供に會ひたいと云ふ氣持は、廣太郎にとつては、幾年にもないことだつたらう。
平凡な家庭に馴れてしまつて、何の波瀾もなかつた日常に、こんなに、二週間近くも子供に會はないと云ふことは、廣太郎にとつては珍しいことだとも云へる。――歸心矢の如しで、廣太郎は子供に會ひたくて仕方がなかつた。そのくせ、廣太郎は、東京驛から、素直にふじ子のもとへ歸るのが億劫で、靜岡から、わざわざ八重子へ東京着の時間を電報で打つたりしておく勝手さもあつた。
東京は雨が降つてゐた。
赤煉瓦の東京驛のホームへ、汽車がすさまじい勢で這入つて行つた。帽子をあみだにかぶつて、ステッキを持ち、網棚から土産物をおろして、廣太郎は悠々と窓から首を出して見たが、ホームに八重子らしいおもかげは見えなかつた。
電報を見ないはずはないのだが、奴さん、もう店へ出てゐたのかも知れんな、廣太郎は、一寸ばかり失望した氣持で、人のまばらになつたホームを歩いていつた。
おゝ、道《だう》は形無し、か、垢《く》去りて明存《みやうそん》し‥‥だな、廣太郎は、白い飛沫をあげて降りつゞけてゐる雨のうつたうしさを眺めて肚のなかから佗しさの溜息を吐いてゐた。
四方八方にゆきくれたおもひである。
明日から、また、會社へ出てゆき、あの世界に身を屈して働くより仕方もないのだらう。人の山林を調べ、人の邸内の坪數を評價して、この鬱勃たる人生が暮れてゆくのも俺の運命かも知れない。
瀧野川へ戻つてみたが、家は鍵がかゝつてゐて誰もゐる樣子がなかつた。差配に鍵をかりてやつと家の中へ這入つたが、家の中は雜然としてゐた。玩具箱がひつくりかへつてゐたし、ハンモックも吊つたなりだつた。よほど以前から、皆さんゐらつしやらないのですよ、と隣家のものが教へてくれた。
廣太郎は、ハンモックの中へ、帽子や土産物を投げいれて、臺所に二本並んでゐるビールを座敷へ持つて來て、一人で栓をぬいてごくごく飮んだ。なまぬるくて美味くはなかつたけれど、哀しみを誘ふやうなビールの味は、廣太郎をいやがうへにも感傷的にしてしまふ。
整理好きのふじ子が、こんなに部屋の中をとりみだしてゐるのは、自分の出たあと怒つて、子供を連れて姫路へ行つたのかも知れないとおもつた。姫路へ歸つても、ふじ子の實家をたづねてやらなかつた冷さが悔いられたが、いまになつては仕方もないことだと、廣太郎は雨の中を、郵便局まで電報を打ちに行き、歸りは酒屋から酒をとどけさせるやうにして家へ戻つて來た。疊はしめつてゐてかびくさく、床の間の百合の花は、枯れてちりちりに銹びた色をしてゐた。
翌日、ふじ子の實家から、こちらには戻つてゐないが、當分、東京へは歸らぬだらう、母子共健在故安心してくれと云つた返電が來た。
廣太郎は、いつたい、ふじ子は何處へ行つたのだらうかと考へた。
雨は昨日から降りつゞいてゐる。
廣太郎は、子供をかゝへた何の取柄もない女が、いつたい二週間以上もどこをうろついてゐるのだらうと思つた。ひよいとしたら自
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