はり、ふじ子は、晝近くになつて、木山へのさゝやかな土産物をたづさへ、二人の子供を連れて兩國驛へ行つた。
何の自制もない、たゞ足まかせな暗澹とした氣持だつた。
4
海風館と云ふ旅館に、木山は滯在してゐた。松林のなかをぬけて、砂地の丘に、明治時代の遺物のやうな、色硝子の雨戸のはいつた古い旅館が木山のゐる宿屋だつた。
木山は吃驚してふじ子たちを迎へた。
「よくわかりましたねえ‥‥」
木山は青年の時よりずつと痩せてはゐたが、少しも病人らしくなかつた。八年の星霜が、二人の間にあつたことを、ふじ子は老けた木山を見て、始めて無量な氣特になつてゐる。木山は眼鏡をかけてゐた。聲音だけは昔のとほりだつたけれど、ふじ子は目の前に立つてゐる木山を、昔の木山とはどうしても思へなかつた。
木山にしたところで、これが、あの當時のふじ子なのかと思つてゐるに違ひない。子供たちは生れて始めて海を見るので、しつかりと、ふじ子の袖につかまつてゐた。海を見晴らした、二階の木山の部屋へ上つてゆくと、子供たちは、砂でざらざらした廊下を、二人とも四ツ這ひに這つて歩いてゐる。
「始めて海をみせたり、その上、この人たちは、いままで、二階家に住んだことがないものですから、怖くて這つて歩くんですわ‥‥」
ふじ子がそつと辯解をした。
砂地をかつと照りかへすやうな暑い日だつたけれど、海からは涼しい風が吹いてきた。風が吹きつけるたび、ざあつと雨のやうな音をたてて松林の梢が鳴つた。
「とても涼しいところですね、――お躯はいかゞでございますか?」
「躯はすつかりいゝのですが、こゝが氣にいつてしまつて、東京へ歸りたくなくなつて弱つてゐます」
木山の後の床の間には、古風な文字で、佛法の海に入らんには、信を根本と爲し、生死の河を渡らんには、戒を船筏と爲す。と書いた軸がさがつてゐる。生死の河を渡らんには‥‥昨夜の新宿の宿のおもひが、ふじ子の胸にぐつとせりあげてきた。
よく眠つてゐる子の寢姿をみて、もうこのまゝこの子供たちと、こゝで自殺をしてしまはうかと思つた。――子供たちは、いつの間にか二階にも海の景色にもなれてしまつたとみえて、今度は、宿の廣い梯子段を上つたり降りたりして遊んでゐる。
「ふじ子さんもかはりましたねえ‥‥」
「えゝ、でも、八年もたてば、いゝかげん、女つてかはりますわ」
ふじ子は、木山からみて、さだめし自分は老いつかれた女にかはつてゐるのだらうと、何となく、木山がまぶしかつた。
木山はぬるい茶をつぎながら、ふじ子の身上話をきいてゐる。
「男つて、結婚生活にも、自分の職業にも飽いて來ると、まるで、手がつけられないンですもの。木山さんにも、そんなお氣持ありますかしら?」
「さうね。ある年齡に達した時、そんなおさきまつくらな氣持は、必ずありますね。女のひとにはわからないでせうが――三十をすぎて來ると、男も、本當に仕事が面白くなつてきますからねえ。仕事に不滿や懷疑の出て來るのも、僕たちの年齡ですよ。あなたの云ふやうな仕事に飽きる氣持ぢやなくて、仕事に慾を持つた時の中だるみだと僕は思ふンです。女のひとが出來たところで、それは長つゞきするものぢやないと思ふンだが。あなたや、子供たちを忘れ果てて去つてゆかれたのだとは、どうも思へないですね」
「さうでせうか‥‥でも私、どうしてもどんなことがあつても、再び前どほりに家庭を持つと云ふことはとても出來ないと思ひますわ。潔癖とでも云ふのでせうかしら。もう、いままでの生活を二度くりかへすのはこりごりですの‥‥」
「子供さんはどうします?」
「子供は私が養育するより仕方がないとおもつてゐます。兄の方を、父親へかへしてやらうかともおもひましたけれども、いざとなると、可愛くて手離すことが出來ませんし‥‥」
「ぢやア、生活はどうします?」
「えゝ、それなンですけれど、どうしたらいゝかと思つてゐますの。二十八にもなつて、しかも子供まであるンですもの、おいそれと、いゝ職業もみつかりつこはありませんし、いつそ、親子心中でもしようかとおもつたりしましたわ」
「ぶつさうですね、――まア、四五日、こゝにゐらつしやい。そしてよく考へるンですよ。死ぬることはいつでも出來ます。最後の瞬間まで、元氣を持たなくちやいけませんね」
娘の頃よりも落ちついてゐて、ふじ子の胸や腰の肉づきが、木山には變にくすぐつたい感じだつた。ふじ子は、このごろ、何もたのしいことがないから、腹いせに煙草を喫ひ出してみたのだと、袂から「朝日」を出して一本口に咥へた。
煙草を唇に咥へた手つきも妙に自然だつたし、白粉氣のない、白い皮膚が、さつぱりとしてゐる。木山はこの女が四五日ゐたところで不快ではないとおもひ、
「まア、ゆつくりしてゐらつしやい、僕は子供好きだし、賑やかでいゝ」
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