はこれから男ざかりだから愉しみだわね」「君もまだまだじやないの?」「私? 私はもう駄目。このまゝしぼんでゆくきり。二三年したら、田舎へ行つて暮したいのよ」「ぼろぼろになるまで長生きして、浮気するつて云つたのは嘘?」「あら、そんな事、私云ひませんよ。私つて、思ひ出に生きてる女なのよ。只、それだけ。いゝお友達になりませうね」「逃げてるね。女学生みたいな事を云ひなさンなよ。えゝ。思ひ出だのつてものはどうでもいゝな」「さうかしら……だつて、柴又へ行つたの云ひ出したの貴方よ」田部はまた膝をぶるぶるとせつかちにゆすぶつた。金が欲しい。金。何とかして、只、五万円でも、きんに借りたいのだ。「本当に都合つかないかねえ。 店を担保に置いても駄目?」「あら、また、お金の話? そンな事私におつしやつても駄目よ。私、一銭もないのよ。そンなお金持ちも知らないし、あるやうでないのが金ぢやないの。私、貴方に借りたい位だわ……」「そりやァうまくゆけば、うんと君に持つて来るさ。君は、忘れられない人だもの、……」「もう沢山よ、そンなおせじは……お金の話しないつて云つたでせう?」わあつと四囲いちめん水つぽい秋の夜風が吹きまくるやうで、田部は、長火鉢の火箸を握つた。一瞬、凄まじい怒りが眉のあたりに這ふ。謎のやうに誘惑される一つの影に向つて、田部は火箸を固く握つた。雷光のやうなとゞろきが動悸を打つ。その動悸に刺激される。きんは何とない不安な眼で田部の手元をみつめた。いつか、こんな場面が自分の周囲にあつたやうな二重写しを見るやうな気がした。「貴方、酔つてるのね、泊つて行くといゝわ……」田部は泊つて行くといゝと云はれて、ふつと火箸を持つた手を離した。ひどく酩酊したかつかうで、田部はよろめきながら厠へ立つて行つた。きんは田部の後姿に予感を受け取り、心のうちでふふんと軽蔑してやる。この戦争ですべての人間の心の環境ががらりと変つたのだ。きんは、茶棚からヒロポンの粒を出して素早く飲んだ。ウイスキーはまだ三分の一は残つてゐる。これをみんな飲ませて、泥のやうに眠らせて、明日は追ひ返してやる。自分だけは眠つてゐられないのだ。よく熾つた火鉢の青い炎の上に、田部の若かりしころの写真をくべた。もうもうと煙が立ちのぼる。物の焼ける匂ひが四囲にこもる。女中のきぬがそつと開いてゐる襖からのぞいた。きんは笑ひながら手真似で、客間に蒲団を敷くやうに言ひつけた。紙の焼ける匂ひを消す為に、きんは薄く切つたチーズの一切れを火にくべた。「わァ、何焼いてるの」厠から戻つて来た田部が女中の豊かな肩に手をかけて襖からのぞき込んだ。「チーズを焼いて食べたらどンな味かと思つて、火箸でつまんだら火におつことしちまつたのよ」白い煙の中に、まっすぐな黒い煙がすつと立ちのぼつてゐる。電気の円い硝子笠が、雲の中に浮いた月のやうに見えた。あぶらの焼ける匂ひが鼻につく。きんは、煙にむせて、四囲の障子や襖を荒々しく開けてまはつた。[#地から1字上げ](「別冊文芸春秋」昭和23[#「23」は縦中横]年11[#「11」は縦中横]月号)
底本:「短篇小説名作選」現代企画室
1981(昭和56)年4月15日第1刷発行
1984(昭和59)年3月15日第2刷
※「ヽ」と「ゝ」、「ア」と「ァ」の混用、促音が「っ」になっている箇所、「都合つかないかねえ。 店を担保に」の全角スペースは底本通りにしました。
入力:土屋隆
校正:小林繁雄
2004年11月16日作成
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