ぢやないわ。「ダンスなンて知らないわ。貴方なさるの?」「少しはね」「さう、いゝ方があるンでせう? それでお金がいるンじやないの?」「馬鹿だなア、女にみつぐ程、ぼろい金まうけはしてゐない」「あら、でも、とても、その身だしなみは紳士ぢやないのよ。相当なお仕事でなくちや、出来ない芸だわ」「これははつたり[#「はつたり」に傍点]なンだ。ふところはぴいぴいなンだぜ。七転《ななころ》び八起《やお》きも此頃はあわたゞしくてね……」きんはふふふとふくみ笑ひをして、田部の房々とした黒髪にみとれてゐる。まだ、十分房々として額ぎはにたれてゐる。角帽の頃の匂ふ水々しさは失せてゐるけれども、頬のあたりがもう中年の仇めかしさを漂はせて、品のいゝ表情はないながらも、逞ましい何かがある。猛獣が遠くから匂ひを嗅ぎあつてゐるやうな観察のしかたで、きんは、田部にも茶を淹れてやつた。「ねえ、近いうちにお金の切りさげってあるつて本当なの?」きんは冗談めかして尋ねた。「心配するほど持つてるンだな?」「まア! すぐ、それだから、貴方つて変つたわね。そンな風評を人がしてるからなのよ」「さア、そンな無理なことはいまの日本ぢや出来ないだらうね。金のないものには、まづ、そンな心配はないさ」「本当ね……」きんはいそいそとウイスキーの瓶を田部のグラスに差した。「あゝ、箱根かどつか静かなところへ行きたいな。二三日そんな処でぐつすり寝てみたい」「疲れてるの」「うん、金の心配でね」「でも、金の心配なンて貴方らしくていゝじやアありませんの? なまじ、女の心配ぢやないだけ……」田部は、きんの取り澄してゐるのが憎々しかつた。上等の古物を見てゐるやうでをかしくもある。一緒に一夜を過したところで、ほどこしをしてやるやうなものだと、田部は、きんのあご[#「あご」に傍点]のあたりを見つめた。しつかりしたあごの線が意志の強さを現はしてゐる。さつき見た唖の女中の水々しい若さが妙に瞼にだぶつて来た。美しい女ではないが、若いと云ふ事が、女に眼の肥えて来た田部には新鮮であつた。なまじ、この出逢ひが始めてならば、かうしたもどかしさもないのではないかと、田部は、さつきよりも疲れの見えて来たきんの顔に老いを感じる。きんは何かを察したのか、さつと立ちあがつて、隣室に行くと、鏡台の前に行き、ホルモンの注射器を取つて、ずぶりと腕に射した。肌を脱脂綿できつくこすりながら、鏡のなかをのぞいて、パフで鼻の上をおさへた。色めきたつ思ひのない男女が、かうしたつまらない出逢ひをしてゐると云ふ事に、きんは口惜しくなつて来て、思ひがけもしない通り魔のやうな涙を瞼に浮べた。板谷だつたら、膝に泣き伏すことも出来る。甘えることも出来る。長火鉢の前にゐる田部が、好きなのかきらひなのか少しも判らないのだ。帰つて貰ひたくもあり、もう少し、何かを相手の心に残したい焦りもある。田部の眼は、自分と別れて以来、沢山の女を見て来てゐるのだ。厠へ立つて、帰り、女中部屋を一寸のぞくと、きぬは、新聞紙の型紙をつくつて、洋裁の勉強を一生懸命にしてゐた。大きなお尻をぺつたりと畳につけて、かゞみ込むやうにして鋏をつかつてゐる。きつちり巻いた髪の襟元が、艶々と白くて、見惚れるやうにたつぷりとした肉づきであつた。きんはそのまゝまた長火鉢の前へ戻つた。田部は寝転んでゐた。きんは茶箪笥の上のラジオをかけた。思ひがけない大きい響きで第九が流れ出した。田部はむつくりと起きた。そしてまたウイスキーのグラスを唇につける。「君と、柴又の川甚へ行つた事があつたね。えらい雨に降りこめられて、飯のない鰻を食つた事があつたなア」「ええ、そンな事あつたわね、あの頃はもう、食べ物がとても不自由な時だつたわ。貴方が兵隊さんになる前よ、床の間に赤い鹿の子百合が咲いててさア、二人で、花瓶を引つくり返したこと覚えてゐる?」「そンな事あつたね……」きんの顔が急にふくらみ、若々しく表情が変つた。「何時かまた行かうか?」「えゝ、さうね、でももう、私、おくくふだわ……もう、あそこも、何でも食べさせるやうになつてるでせうね?」きんは、さつき泣いた感傷を消さないやうに、そつと、昔の思ひ出をたぐりよせようと努力してゐる。そのくせ、田部とは違ふ男の顔が心に浮ぶ。田部と柴又に行つたあと、終戦直後に、山崎と云ふ男と一度、柴又へ行つた記憶がある。山崎はつい先達胃の手術で死んでしまつた。晩夏でむし暑い日の江戸川べりの川甚の薄暗い部屋の景色が浮んで来る。こつとん、こつとん、水揚げをしてゐる自動ポンプの音が耳についてゐた。カナカナが鳴きたてて、窓べの高い江戸川堤の上を買ひ出しの自転車が競争のやうに銀輪を光らせて走つてゐたものだ。山崎とは二度目のあひゞきであつたが、女に初心《うぶ》な山崎の若さが、きんにはしみじみと神聖に感じられた。食べ物も豊富だつたし、終戦のあとの気の抜けた世相が、案外真空の中にゐるやうに静かだつた。帰りは夜で、新小岩へ広い軍道路をバスで戻つたのを覚えてゐる。「あれから、面白い人にめぐりあつた?」「私?」「うん……」「面白い人つて、貴方以外に何もありませんわ」「嘘つけ!」「あら、どうして、さうぢやないの? こんな私を、誰が相手にするものですか……」「信用しない」「さう……でも、私、これから咲き出すつもり、生きてゐる甲斐にね」「まだ、相当長生きだらうからね」「えゝ、長生きをして、ぼろぼろに老いさらばへるまで……」「浮気はやめない?」「まア、貴方つて云ふひとは、昔の純なとこ少しもなくなつたわね。どうして、そンな厭なことを云ふ人になつたんでせう? 昔の貴方は綺麗だつたわ」田部は、きんの銀の煙管を取つて吸つてみた。じゆつと苦味いやに[#「やに」に傍点]が舌に来る。田部はハンカチを出して、べつとやに[#「やに」に傍点]を吐いた。「掃除しないからつまつてるのよ」きんは笑ひながら、煙管を取りあげて、散り紙の上に小刻みに強く振つた。田部は、きんの生活を不思議に考へる。世相の残酷さが何一つ跡をとゞめてはいないと言ふ事だ。二三十万の金は何とか都合のつきさうな暮しむきだ。田部はきんの肉体に対しては何の未練もなかつたが、この暮しの底にかくれてゐる女の生活の豊かさに追ひすがる気持ちだつた。戦争から戻つて、只の血気だけで商売をしてみたが、兄からの資本は半年たらずですつかり使ひ果してゐたし、細君以外の女にもかゝはりがあつて、その女にもやがて子供が出来るのだ。昔のきんを思ひ出して、もしやと言ふ気持ちできんの処へ来たのだけれども、きんは、昔のやうな一途のところはなくなつてゐて、いやに分別を心得てゐた。田部との久々の出逢ひにも一向に燃えては来なかつた。体を崩さない、きちんとした表情が、田部には仲々近寄りがたいのである。もう一度、田部はきんの手を取つて固く握つてみた。きんはされるまゝになつてゐるだけである。火鉢に乗り出して来るでもなく、片手で煙管のやに[#「やに」に傍点]を取つてゐる。
 長い歳月に晒らされたと言ふ事が、複雑な感情をお互ひの胸の中にたゝみこんでしまつた。昔のあのなつかしさはもう二度と再び戻つては来ないほど、二人とも並行して年を取つて来たのだ。二人は黙つたまゝ現在を比較しあつてゐる。幻滅の輪の中に沈み込んでしまつてゐる。二人は複雑な疲れ方で逢つてゐるのだ。小説的な偶然はこの現実にはみぢんもない。小説の方がはるかに甘いのかも知れない。微妙な人生の真実。二人はお互ひをこゝで拒絶しあふ為に逢つてゐるに過ぎない。田部は、きんを殺してしまふ事も空想した。だが、こんな女でも殺したとなると罪になるのだと思ふと妙な気がした。誰からも注意されない女を一人や二人殺したところで、それが何だらうと思ひながらも、それが罪人になつてしまふ結果の事を考へると馬鹿々々しくなつて来るのだ。たかが虫けら同然の老女ではないかと思ひながらも、この女は何事にも動じないでこゝに生きてゐるのだ。二つの箪笥の中には、五十年かけてつくつた着物がぎつしりと這入つてゐるに違ひない。昔、ミッシェルとか言つた仏蘭西人に贈られた腕環を見せられた事があつたけれども、あゝした宝石類も持つてゐるに違ひない。この家も彼女のものであるにきまつてゐる。唖の女中を置いてゐる女の一人位を殺したところで大した事はあるまいと空想を逞しくしながらも、田部は、此女に思ひつめて、戦争最中あひゞきを続けてゐた学生時代の、この思ひ出が息苦しく生鮮を放つて来る。酒の酔ひがまはつたせゐか、眼の前にゐるきんのおもかげが自分の皮膚の中に妙にしびれ込んで来る。手を触れる気もないくせに、きんとの昔が量感を持つて心に影をつくる。
 きんは立つて、押入れの中から、田部の学生時代の写真を一枚出して来た。「ほゝう、妙なもの持つてゐるンだね」「えゝ、すみ子のところにあつたのよ。貰つて来たの、これ、私と逢ふ前の頃のね。この頃の貴方つて貴公子みたいよ。紺飛白でいゝぢやない? 持つていらつしやいよ。奥さまにお見せになるといゝわ。綺麗ね。いやらしい事を言ふひとには見えませんね」「こんな時代もあつたンだね?」「ええ、さうよ。このまゝですくすくとそだつて行つたら、田部さんは大したものだつたのね?」「ぢやァ、すくすくとそだたなかつたつて言ふの?」「ええ、さう」「そりやァ、君のせゐだし、長い戦争もあつたしね」「あら、そンな事、こじつけだわ。そンな事は原因にならなくてよ。貴方つて、とても俗になつちやつた……」「へえ……俗にね。これが人間なンだよ」「でも、長い事、此写真を持ち歩いてゐた私の純情もいゝぢやァないの?」「多少は思ひ出もンだらうからね。僕にはくれなかつたね?」「私の写真?」「うん」「写真は怖いわ。でも、昔の私の芸者時代の写真、戦地に送つて上げたでせう?」「どこかへおつことしちやつたなァ……」「それごらんなさい。私の方が、ずつと純だわ」
 長火鉢のとりで[#「とりで」に傍点]は、仲々崩れそうにもない。田部は、もうすつかり酔つぱらつてしまつた。きんの前にあるグラスは、始めの一杯をついだまゝのが、まだ半分以上も残つてゐる。田部は冷たい茶を一気に呑んで、自分の写真を興味もなく横板の上に置いた。「電車、大丈夫?」「帰れやしないよ。このまゝ酔つぱらひを追ひ出すのかい」「えゝ、さう、ぽいと放り出しちやふわ。こゝは女の家で、近所がうるさいですからね」「近所? へえ、そンなもの君が気にするとは思はないな」「気にします」「旦那が来るの?」「まァ! 厭な田部さん、私、ぞつとしてしまつてよ。そンなこと言ふ貴方つてきらひッ!」「いゝさ。金が出来なきや、二三日帰れないンだ。こゝへ置いて貰ふかな……」きんは、両手で頬杖をついて、ぢいつと大きい眼を見はつて田部の白つぽい唇を見た。百年の恋もさめ果てるのだ。黙つて、眼の前にゐる男を吟味してゐる。昔のやうな、心のいろどりはもうお互ひに消えてしまつてゐる。青年期にあつた男の恥ぢらひが少しもないのだ。金一封を出して戻つてもらひたい位だ。だが、きんは、眼の前にだらしなく酔つてゐる男に一銭の金も出すのは厭であつた。初々しい男に出してやる方がまだまし[#「まし」に傍点]である。自尊心のない男ほど厭なものはない。自分に血道をあげて来た男の初々しさをきんは幾度も経験してゐた。きんは、さうした男の初々しさに惹かれてゐたし、高尚なものにも思つてゐた。理想的な相手を選ぶ事以外に彼女の興味はない。きんは、心の中で、田部をつまらぬ男になりさがつたものだと思つた。戦死もしないで戻つて来た運の強さが、きんには運命を感じさせる。広島まで田部を追つて行つた、あの時の苦労だけで、もうこの男とは幕にすべきだつたと思ふのだつた。「何をじろじろ人の顔見てるンだ?」「あら、あなただつて、さつきから、私をじろじろ見てて何かいゝ気な事考へてゐたでせう?」「いや、何時逢つても美しいきんさんだと見惚れてゐたのさ……」「さう、私も、さうなの。田部さんは立派になつたと思つて……」「逆説だね」田部は、人殺しの空想をしてゐたのだと口まで出かけてゐるのをぐつとおさへて、逆説だねと逃げた。「貴方
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