るやうで、田部は、長火鉢の火箸を握つた。一瞬、凄まじい怒りが眉のあたりに這ふ。謎のやうに誘惑される一つの影に向つて、田部は火箸を固く握つた。雷光のやうなとゞろきが動悸を打つ。その動悸に刺激される。きんは何とない不安な眼で田部の手元をみつめた。いつか、こんな場面が自分の周囲にあつたやうな二重写しを見るやうな気がした。「貴方、酔つてるのね、泊つて行くといゝわ……」田部は泊つて行くといゝと云はれて、ふつと火箸を持つた手を離した。ひどく酩酊したかつかうで、田部はよろめきながら厠へ立つて行つた。きんは田部の後姿に予感を受け取り、心のうちでふふんと軽蔑してやる。この戦争ですべての人間の心の環境ががらりと変つたのだ。きんは、茶棚からヒロポンの粒を出して素早く飲んだ。ウイスキーはまだ三分の一は残つてゐる。これをみんな飲ませて、泥のやうに眠らせて、明日は追ひ返してやる。自分だけは眠つてゐられないのだ。よく熾つた火鉢の青い炎の上に、田部の若かりしころの写真をくべた。もうもうと煙が立ちのぼる。物の焼ける匂ひが四囲にこもる。女中のきぬがそつと開いてゐる襖からのぞいた。きんは笑ひながら手真似で、客間に蒲団を敷く
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