二三十万の金は何とか都合のつきさうな暮しむきだ。田部はきんの肉体に対しては何の未練もなかつたが、この暮しの底にかくれてゐる女の生活の豊かさに追ひすがる気持ちだつた。戦争から戻つて、只の血気だけで商売をしてみたが、兄からの資本は半年たらずですつかり使ひ果してゐたし、細君以外の女にもかゝはりがあつて、その女にもやがて子供が出来るのだ。昔のきんを思ひ出して、もしやと言ふ気持ちできんの処へ来たのだけれども、きんは、昔のやうな一途のところはなくなつてゐて、いやに分別を心得てゐた。田部との久々の出逢ひにも一向に燃えては来なかつた。体を崩さない、きちんとした表情が、田部には仲々近寄りがたいのである。もう一度、田部はきんの手を取つて固く握つてみた。きんはされるまゝになつてゐるだけである。火鉢に乗り出して来るでもなく、片手で煙管のやに[#「やに」に傍点]を取つてゐる。
長い歳月に晒らされたと言ふ事が、複雑な感情をお互ひの胸の中にたゝみこんでしまつた。昔のあのなつかしさはもう二度と再び戻つては来ないほど、二人とも並行して年を取つて来たのだ。二人は黙つたまゝ現在を比較しあつてゐる。幻滅の輪の中に沈み込んで
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