豊富だつたし、終戦のあとの気の抜けた世相が、案外真空の中にゐるやうに静かだつた。帰りは夜で、新小岩へ広い軍道路をバスで戻つたのを覚えてゐる。「あれから、面白い人にめぐりあつた?」「私?」「うん……」「面白い人つて、貴方以外に何もありませんわ」「嘘つけ!」「あら、どうして、さうぢやないの? こんな私を、誰が相手にするものですか……」「信用しない」「さう……でも、私、これから咲き出すつもり、生きてゐる甲斐にね」「まだ、相当長生きだらうからね」「えゝ、長生きをして、ぼろぼろに老いさらばへるまで……」「浮気はやめない?」「まア、貴方つて云ふひとは、昔の純なとこ少しもなくなつたわね。どうして、そンな厭なことを云ふ人になつたんでせう? 昔の貴方は綺麗だつたわ」田部は、きんの銀の煙管を取つて吸つてみた。じゆつと苦味いやに[#「やに」に傍点]が舌に来る。田部はハンカチを出して、べつとやに[#「やに」に傍点]を吐いた。「掃除しないからつまつてるのよ」きんは笑ひながら、煙管を取りあげて、散り紙の上に小刻みに強く振つた。田部は、きんの生活を不思議に考へる。世相の残酷さが何一つ跡をとゞめてはいないと言ふ事だ。
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