がら、鏡のなかをのぞいて、パフで鼻の上をおさへた。色めきたつ思ひのない男女が、かうしたつまらない出逢ひをしてゐると云ふ事に、きんは口惜しくなつて来て、思ひがけもしない通り魔のやうな涙を瞼に浮べた。板谷だつたら、膝に泣き伏すことも出来る。甘えることも出来る。長火鉢の前にゐる田部が、好きなのかきらひなのか少しも判らないのだ。帰つて貰ひたくもあり、もう少し、何かを相手の心に残したい焦りもある。田部の眼は、自分と別れて以来、沢山の女を見て来てゐるのだ。厠へ立つて、帰り、女中部屋を一寸のぞくと、きぬは、新聞紙の型紙をつくつて、洋裁の勉強を一生懸命にしてゐた。大きなお尻をぺつたりと畳につけて、かゞみ込むやうにして鋏をつかつてゐる。きつちり巻いた髪の襟元が、艶々と白くて、見惚れるやうにたつぷりとした肉づきであつた。きんはそのまゝまた長火鉢の前へ戻つた。田部は寝転んでゐた。きんは茶箪笥の上のラジオをかけた。思ひがけない大きい響きで第九が流れ出した。田部はむつくりと起きた。そしてまたウイスキーのグラスを唇につける。「君と、柴又の川甚へ行つた事があつたね。えらい雨に降りこめられて、飯のない鰻を食つた事があ
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