豊富だつたし、終戦のあとの気の抜けた世相が、案外真空の中にゐるやうに静かだつた。帰りは夜で、新小岩へ広い軍道路をバスで戻つたのを覚えてゐる。「あれから、面白い人にめぐりあつた?」「私?」「うん……」「面白い人つて、貴方以外に何もありませんわ」「嘘つけ!」「あら、どうして、さうぢやないの? こんな私を、誰が相手にするものですか……」「信用しない」「さう……でも、私、これから咲き出すつもり、生きてゐる甲斐にね」「まだ、相当長生きだらうからね」「えゝ、長生きをして、ぼろぼろに老いさらばへるまで……」「浮気はやめない?」「まア、貴方つて云ふひとは、昔の純なとこ少しもなくなつたわね。どうして、そンな厭なことを云ふ人になつたんでせう? 昔の貴方は綺麗だつたわ」田部は、きんの銀の煙管を取つて吸つてみた。じゆつと苦味いやに[#「やに」に傍点]が舌に来る。田部はハンカチを出して、べつとやに[#「やに」に傍点]を吐いた。「掃除しないからつまつてるのよ」きんは笑ひながら、煙管を取りあげて、散り紙の上に小刻みに強く振つた。田部は、きんの生活を不思議に考へる。世相の残酷さが何一つ跡をとゞめてはいないと言ふ事だ。二三十万の金は何とか都合のつきさうな暮しむきだ。田部はきんの肉体に対しては何の未練もなかつたが、この暮しの底にかくれてゐる女の生活の豊かさに追ひすがる気持ちだつた。戦争から戻つて、只の血気だけで商売をしてみたが、兄からの資本は半年たらずですつかり使ひ果してゐたし、細君以外の女にもかゝはりがあつて、その女にもやがて子供が出来るのだ。昔のきんを思ひ出して、もしやと言ふ気持ちできんの処へ来たのだけれども、きんは、昔のやうな一途のところはなくなつてゐて、いやに分別を心得てゐた。田部との久々の出逢ひにも一向に燃えては来なかつた。体を崩さない、きちんとした表情が、田部には仲々近寄りがたいのである。もう一度、田部はきんの手を取つて固く握つてみた。きんはされるまゝになつてゐるだけである。火鉢に乗り出して来るでもなく、片手で煙管のやに[#「やに」に傍点]を取つてゐる。
 長い歳月に晒らされたと言ふ事が、複雑な感情をお互ひの胸の中にたゝみこんでしまつた。昔のあのなつかしさはもう二度と再び戻つては来ないほど、二人とも並行して年を取つて来たのだ。二人は黙つたまゝ現在を比較しあつてゐる。幻滅の輪の中に沈み込んでしまつてゐる。二人は複雑な疲れ方で逢つてゐるのだ。小説的な偶然はこの現実にはみぢんもない。小説の方がはるかに甘いのかも知れない。微妙な人生の真実。二人はお互ひをこゝで拒絶しあふ為に逢つてゐるに過ぎない。田部は、きんを殺してしまふ事も空想した。だが、こんな女でも殺したとなると罪になるのだと思ふと妙な気がした。誰からも注意されない女を一人や二人殺したところで、それが何だらうと思ひながらも、それが罪人になつてしまふ結果の事を考へると馬鹿々々しくなつて来るのだ。たかが虫けら同然の老女ではないかと思ひながらも、この女は何事にも動じないでこゝに生きてゐるのだ。二つの箪笥の中には、五十年かけてつくつた着物がぎつしりと這入つてゐるに違ひない。昔、ミッシェルとか言つた仏蘭西人に贈られた腕環を見せられた事があつたけれども、あゝした宝石類も持つてゐるに違ひない。この家も彼女のものであるにきまつてゐる。唖の女中を置いてゐる女の一人位を殺したところで大した事はあるまいと空想を逞しくしながらも、田部は、此女に思ひつめて、戦争最中あひゞきを続けてゐた学生時代の、この思ひ出が息苦しく生鮮を放つて来る。酒の酔ひがまはつたせゐか、眼の前にゐるきんのおもかげが自分の皮膚の中に妙にしびれ込んで来る。手を触れる気もないくせに、きんとの昔が量感を持つて心に影をつくる。
 きんは立つて、押入れの中から、田部の学生時代の写真を一枚出して来た。「ほゝう、妙なもの持つてゐるンだね」「えゝ、すみ子のところにあつたのよ。貰つて来たの、これ、私と逢ふ前の頃のね。この頃の貴方つて貴公子みたいよ。紺飛白でいゝぢやない? 持つていらつしやいよ。奥さまにお見せになるといゝわ。綺麗ね。いやらしい事を言ふひとには見えませんね」「こんな時代もあつたンだね?」「ええ、さうよ。このまゝですくすくとそだつて行つたら、田部さんは大したものだつたのね?」「ぢやァ、すくすくとそだたなかつたつて言ふの?」「ええ、さう」「そりやァ、君のせゐだし、長い戦争もあつたしね」「あら、そンな事、こじつけだわ。そンな事は原因にならなくてよ。貴方つて、とても俗になつちやつた……」「へえ……俗にね。これが人間なンだよ」「でも、長い事、此写真を持ち歩いてゐた私の純情もいゝぢやァないの?」「多少は思ひ出もンだらうからね。僕にはくれなかつたね?」「私の写真?」「うん」「写真
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