きんは男が尋ねて来ても、昔から自分の方で食事を出すと云ふことはあまりしなかつた。こまごまと茶餉台をつくつて、手料理なんですよと並べたてて男に愛らしい女と思はれたいなぞとは露ほども考へないのである。家庭的な女と云ふ事はきんには何の興味もないのだ。結婚をしようなぞと思ひもしない男に、家庭的な女として媚びてゆくいはれ[#「いはれ」に傍点]はないのだ。かうしたきんに向つて来る男は、きんの為に、いろいろな土産物を持つて来た。きんにとつてはそれが当り前なのである。きんは金のない男を相手にするやうな事はけつしてしなかつた。金のない男ほど魅力のないものはない。恋をする男が、ブラッシュもかけない洋服を着たり、肌着の釦のはづれたのなぞ平気で着てゐるやうな男はふつと厭になつてしまふ。恋をする、その事自体が、きんには一つ一つ芸術品を造り出すやうな気がした。きんは娘時代に赤坂の万龍に似てゐると云はれた。人妻になつた万龍を一度見掛けた事があつたが、惚々とするやうな美しい女であつた。きんはその見事な美しさに唸つてしまつた。女が何時までも美しさを保つと云ふ事は、金がなくてはどうにもならない事なのだと悟つた。きんが芸者になつたのは、十九の時であつた。大した芸事も身につけてはゐなかつたが、只、美しいと云ふ事で芸者になり得た。その頃、仏蘭西人で東洋見物に来ていたもうかなりな年齢の紳士の座敷に呼ばれて、きんは紳士から日本のマルグリット・ゴオチェとして愛されるやうになり、きん自身も、椿姫気取りでゐた事もある。肉体的には案外つまらない人であつたが、きんには何となく忘れがたい人であつた。ミッシェルさんと云つて、もう、仏蘭西の北の何処かで死んでゐるに違ひない年齢である。仏蘭西へ帰つたミッシェルから、オパールとこまかいダイヤを散りばめた腕環を贈つて来たが、それだけは戦争最中にも手放さなかつた。――きんの関係した男達は、みんなそれぞれに偉くなつていつたが、この終戦後は、その男達のおほかたは消息も判らなくなつてしまつた。相沢きんは相当の財産を溜め込んでゐるだらうと云ふ風評であつたが、きんはかつて待合をしようとか、料理屋をしようなぞとは一度と考へた事がなかつた。持つてゐるものと云へば、焼けなかつた自分の家と、熱海の別荘を一軒持つてゐるきりで、人の云ふほどの金はなかつた。別荘は義妹の名前になつてゐたのを、終戦後、折を見て手
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