袖口にかいま見える色彩は、すべて淡い色あひを好み、水色と桃色のぼかしたたづななぞを身につけてゐた。香水は甘つたるい匂ひを、肩とぼつてりした二の腕にこすりつけておく。耳朶なぞへは間違つてもつけるやうな事はしないのである。きんは女である事を忘れたくないのだ。世間の老婆の薄汚なさになるのならば死んだ方がましなのである。――人の身にあるまじきまでたわゝなる、薔薇と思へどわが心地する。きんは有名な女の歌つたと云ふこの歌が好きであつた。男から離れてしまつた生活は考へてもぞつとする。板谷の持つて来た、薔薇の薄いピンクの花びらを見てゐると、その花の豪華さにきんは昔を夢見る。遠い昔の風俗や自分の趣味や快楽が少しづつ変化して来てゐる事もきんには愉しかつた。一人寝の折、きんは真夜中に眼が覚めると、娘時代からの男の数を指でひそかに折り数へてみた。あのひととあのひと、それにあのひと、あゝ、あのひともある……でも、あのひとは、あのひとよりも先に逢つてゐたのかしら……それとも、後だつたかしら……きんは、まるで数へ歌のやうに、男の思ひ出に心が煙たくむせて来る。思ひ出す男の別れ方によつて涙の出て来るやうな人もあつた。きんは一人一人の男に就いては、出逢ひの時のみを考へるのが好きであつた。以前読んだ事のある伊勢物語風に、昔男ありけりと云ふ思ひ出をいつぱい心に溜めてゐるせゐか、きんは一人寝の寝床のなかで、うつらうつらと昔の男の事を考へるのは愉しみであつた。――田部からの電話はきんにとつては思ひがけなかつたし、上等の葡萄酒にでもお眼にかゝつたやうな気がした。田部は、思ひ出に吊られて来るだけだ。昔のなごりが少しは残つてゐるであらうかと言つた感傷で、恋の焼跡を吟味しに来るやうなものなのだ。草茫々の瓦礫の跡に立つて、只、あゝと溜息だけをつかせてはならないのだ。年齢や環境に聊さかの貧しさもあつてはならないのだ。慎み深い表情が何よりであり、雰囲気は二人でしみじみと没頭出来るやうなたゞよひでなくてはならない。自分の女は相変らず美しい女だつたと云ふ後味のなごりを忘れさせてはならないのだ。きんはとゞこほりなく身支度が済むと、鏡の前に立つて自分の舞台姿をたしかめる。万事抜かりはないかと……。茶の間へ行くと、もう、夕食の膳が出てゐる。薄い味噌汁と、塩昆布に麦飯を女中と差し向ひで食べると、あとは卵を破つて黄身をぐつと飲んでおく。
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