は怖いわ。でも、昔の私の芸者時代の写真、戦地に送つて上げたでせう?」「どこかへおつことしちやつたなァ……」「それごらんなさい。私の方が、ずつと純だわ」
長火鉢のとりで[#「とりで」に傍点]は、仲々崩れそうにもない。田部は、もうすつかり酔つぱらつてしまつた。きんの前にあるグラスは、始めの一杯をついだまゝのが、まだ半分以上も残つてゐる。田部は冷たい茶を一気に呑んで、自分の写真を興味もなく横板の上に置いた。「電車、大丈夫?」「帰れやしないよ。このまゝ酔つぱらひを追ひ出すのかい」「えゝ、さう、ぽいと放り出しちやふわ。こゝは女の家で、近所がうるさいですからね」「近所? へえ、そンなもの君が気にするとは思はないな」「気にします」「旦那が来るの?」「まァ! 厭な田部さん、私、ぞつとしてしまつてよ。そンなこと言ふ貴方つてきらひッ!」「いゝさ。金が出来なきや、二三日帰れないンだ。こゝへ置いて貰ふかな……」きんは、両手で頬杖をついて、ぢいつと大きい眼を見はつて田部の白つぽい唇を見た。百年の恋もさめ果てるのだ。黙つて、眼の前にゐる男を吟味してゐる。昔のやうな、心のいろどりはもうお互ひに消えてしまつてゐる。青年期にあつた男の恥ぢらひが少しもないのだ。金一封を出して戻つてもらひたい位だ。だが、きんは、眼の前にだらしなく酔つてゐる男に一銭の金も出すのは厭であつた。初々しい男に出してやる方がまだまし[#「まし」に傍点]である。自尊心のない男ほど厭なものはない。自分に血道をあげて来た男の初々しさをきんは幾度も経験してゐた。きんは、さうした男の初々しさに惹かれてゐたし、高尚なものにも思つてゐた。理想的な相手を選ぶ事以外に彼女の興味はない。きんは、心の中で、田部をつまらぬ男になりさがつたものだと思つた。戦死もしないで戻つて来た運の強さが、きんには運命を感じさせる。広島まで田部を追つて行つた、あの時の苦労だけで、もうこの男とは幕にすべきだつたと思ふのだつた。「何をじろじろ人の顔見てるンだ?」「あら、あなただつて、さつきから、私をじろじろ見てて何かいゝ気な事考へてゐたでせう?」「いや、何時逢つても美しいきんさんだと見惚れてゐたのさ……」「さう、私も、さうなの。田部さんは立派になつたと思つて……」「逆説だね」田部は、人殺しの空想をしてゐたのだと口まで出かけてゐるのをぐつとおさへて、逆説だねと逃げた。「貴方
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