しまつてゐる。二人は複雑な疲れ方で逢つてゐるのだ。小説的な偶然はこの現実にはみぢんもない。小説の方がはるかに甘いのかも知れない。微妙な人生の真実。二人はお互ひをこゝで拒絶しあふ為に逢つてゐるに過ぎない。田部は、きんを殺してしまふ事も空想した。だが、こんな女でも殺したとなると罪になるのだと思ふと妙な気がした。誰からも注意されない女を一人や二人殺したところで、それが何だらうと思ひながらも、それが罪人になつてしまふ結果の事を考へると馬鹿々々しくなつて来るのだ。たかが虫けら同然の老女ではないかと思ひながらも、この女は何事にも動じないでこゝに生きてゐるのだ。二つの箪笥の中には、五十年かけてつくつた着物がぎつしりと這入つてゐるに違ひない。昔、ミッシェルとか言つた仏蘭西人に贈られた腕環を見せられた事があつたけれども、あゝした宝石類も持つてゐるに違ひない。この家も彼女のものであるにきまつてゐる。唖の女中を置いてゐる女の一人位を殺したところで大した事はあるまいと空想を逞しくしながらも、田部は、此女に思ひつめて、戦争最中あひゞきを続けてゐた学生時代の、この思ひ出が息苦しく生鮮を放つて来る。酒の酔ひがまはつたせゐか、眼の前にゐるきんのおもかげが自分の皮膚の中に妙にしびれ込んで来る。手を触れる気もないくせに、きんとの昔が量感を持つて心に影をつくる。
きんは立つて、押入れの中から、田部の学生時代の写真を一枚出して来た。「ほゝう、妙なもの持つてゐるンだね」「えゝ、すみ子のところにあつたのよ。貰つて来たの、これ、私と逢ふ前の頃のね。この頃の貴方つて貴公子みたいよ。紺飛白でいゝぢやない? 持つていらつしやいよ。奥さまにお見せになるといゝわ。綺麗ね。いやらしい事を言ふひとには見えませんね」「こんな時代もあつたンだね?」「ええ、さうよ。このまゝですくすくとそだつて行つたら、田部さんは大したものだつたのね?」「ぢやァ、すくすくとそだたなかつたつて言ふの?」「ええ、さう」「そりやァ、君のせゐだし、長い戦争もあつたしね」「あら、そンな事、こじつけだわ。そンな事は原因にならなくてよ。貴方つて、とても俗になつちやつた……」「へえ……俗にね。これが人間なンだよ」「でも、長い事、此写真を持ち歩いてゐた私の純情もいゝぢやァないの?」「多少は思ひ出もンだらうからね。僕にはくれなかつたね?」「私の写真?」「うん」「写真
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