?」「憤つたの? さうぢやないンだよ。さうぢやないンだ。あンたは倖せな人だつて言ふンだよ。男の仕事つて辛いもンだから、つい、そンな事を云つたのさ。いまの世は、あだやおろそかには暮せない。喰ふか喰はれるかだ。僕なンか、毎日ばくち[#「ばくち」に傍点]をして暮してゐるやうなもンだからね」「だつて、景気はいゝンでせう?」「よかないさ……あぶない綱渡り、耳鳴りがする位辛い金を使つてゐるンだぜ」きんは黙つてウイスキーをなめた。壁ぎはでこほろぎが啼いてゐるのがいやにしめつぽい。田部は、二杯目のウイスキーを飲むと、荒々しくきんの手を火鉢越しにつかんだ。指環をはめてゐない手が絹ハンカチのやうに頼りないほど柔い。きんは手の先きにある力をぢつと抜いて、息を殺してゐた。力の抜けてゐる手は無性に冷たくてぼつてりと柔い。田部の酔つた目には、昔の様々が渦をなし心に迫つて来る。昔のまゝの美しさで女が坐つてゐる。不思議な気がした。絶えず流れる歳月のなかに少しづつ経験が積み重なつてゆく。その流れのなかに、飛躍もあれば墜落もある。だが、昔の女は何の変化もなく太々しくそこに坐つてゐる。田部はぢいつときんの眼をみつめた。眼をかこむ小皺も昔のままだ。輪郭も崩れてはゐない。この女の生活の情態を知りたかつた。この女には社会的の反射は何の反応もなかつたのかもしれない。箪笥を飾り長火鉢を飾り、豪華に群生した薔薇の花も飾り、につこりと笑つて自分の前に坐つてゐる。もう、すでに五十は越してゐる筈だのに、匂ふばかりの女らしさである。田部はきんの本当の年齢を知らなかつた。アパート住ひの田部は、二十五歳になつたばかりの細君のそゝけた疲れた姿を瞼に浮べる。きんは火鉢のひき出しから、のべ銀の細い煙管を出して、小さくなつた両切りをさして火をつけた。田部が、時々膝頭をぶるぶるとゆすぶつてゐるのが、きんには気にかゝつた。金銭的に参つてゐる事でもあるのかも知れないと、きんはぢいつと田部の表情を観察した。広島へ行つた時のやうな一途な思ひはもうきんの心から薄れ去つてゐる。二人の長い空白が、きんには現実に逢つてみるとちぐはぐな気がする。さうしたちぐはぐな思ひが、きんにはもどかしく淋しかつた。どうにも昔のやうに心が燃えてゆかないのだ。この男の肉体をよく知つてゐると云ふ事で、自分にはもうこの男のすべてに魅力を失つてゐるのかしらとも考へる。雰囲気はあ
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