町《もとちょう》のお波さんへ電話をかける。正月大阪へ来た折に文楽の人形を頼んでおいたのが出来たかどうか。首がまだついていないけれども、衣装が美しいから早く見せたいと云う返事だった。「そんなら、神戸の帰りに寄りますけど、それまでには出来てる?」と訊《き》くと、あんじょう出来てますと云う返事なので、わたしはすぐ雨の中を神戸へ行き、窪川鶴次郎《くぼかわつるじろう》氏、渡辺順三《わたなべじゅんぞう》氏たちと逢い、啄木の講演を済ませて神戸の諏訪山の宿へ二泊して、十四日に尾道《おのみち》へ発《た》って行った。ふと、海がみたくなったからだ。汽車が駅々へ着くたび昔聞き馴れた田舎《いなか》言葉がなつかしく耳に響いて来る。わたしはさまざまな記憶で落ちついていられなかった。歓《よろこ》びで、胸がはずんでいた。幼い日の女友達に逢いたいとおもった。もう女学校を卒業して十年以上になるのだから、その人たちはみんな奥さんになって、子供があるに違いない。
*
尾道の駅には昼すぎて着いた。新らしい果物屋、新らしい自動車屋、新らしい桟橋《さんばし》、何か昔と違った新鮮な町に変っていた。道も立派になり女車掌の乗っている銀色のバスが通っているけれども、いまだに昔と変らないのは、町じゅうが魚臭《さかなくさ》いことだ。その匂《にお》いを嗅《か》ぐと母親を連れて来てやればよかったとおもった。だが、あんまり町が立派になっているので、歓びがすぐ失望にかわって行ってしまう。町では文房具屋にかたづいている友達を尋ねてみた。もう四人もの子もちだった。
「まア! 誰かとおもえば、あんたですかの、どうしなさったんなア、こんなにとつぜんで、ほんまに、びっくりしやんすが喃《のう》」
そう云って、その友達は、白粉《おしろい》の濃い綺麗な顔で、店の暗い梯子段《はしごだん》を降りて来た。――わたしは海添いの旅館に宿をとった。障子を開けると、てすり[#「てすり」に傍点]の下が海で、四国航路の船が時々汽笛を鳴らして通っている。向島のドックには色々な船が修理に這入っていた。鉄板を叩《たた》く音が、こだまして響いて来る。なごやかに景色に融けた気持ちであった。ひそかな音をたてて石崖に当る波の音もなつかしかった。てすり[#「てすり」に傍点]に凭れて海を見ていると、十年もの歳月が一瞬のように思えて仕方がない。この宿屋に泊るのに、金は大丈夫だったかしらと、何の錯覚からかそんな事まで考えたりした。
昔、わたしはこの町で随分貧しい暮らしをしていた。さまざまなものが生々と浮んで来る。その当時の苦痛がかえってはっきり心に写って来る。休止状態にあったみじめな生活が、海の上に浮んで来る。わたしは昔のおもい出で、窒息しそうに愉《たの》しかった。その愉しさは狂人みたいだった。Y襯衣《シャツ》の胸の釦《ボタン》をみんなはずして、大きな息をしたいほどな狂人じみた悲しさだった。明日は因《いん》の島《しま》へ行ってみようと思ったりした。
風呂から上ると、わたしは廊下を通る女中を呼びとめて、上等の蒲団《ふとん》へ寝かせて下さいと頼んだ。なりあがりものの素質をまるだしにしてしまって、だが、その気持ちは子供のような歓びなのだ。わたしは海ばかり見ていた。ちぬご、かわはぎ、かながしら、色々な魚が宙に浮んで来る。
夜になると宿屋の上をほととぎすが鳴いて通った。この町では晩春頃からほととぎすが鳴きに来た。学校の国文の教師や、女友達が遊びに来てくれた。子供を寝かしつけていて遅くなったと云う友達もあった。
*
翌日は早く起きて因の島行きの船へ乗った。風は寒かったがいい天気だった。船が町に添って進んでゆくので、わたしは甲板に出て町を見上げた。わたしの住んでいた二階が見える。円福寺と云う家具屋の看板が出ていた。わたしは亡くなった義父の棺桶《かんおけ》を見ているような気持ちだった。千光寺山には紅白の鯨幕《くじらまく》がちらほら見えた。因の島の三ツ庄へ行くのを西行きとまちがえてたくま[#「たくま」に傍点]と云う土地へ上った。船着場の酒屋で、歩いてどの位でしょうと訊くと、一里はあるだろうと云う返事なので、荷物が大変だと、船をしたてて貰って三ツ庄へ行った。小さい和舟の胴中に、モオタアをつけた木の葉のような船で、走り出すと、頬《ほお》がぶるぶるゆすぶれる。はぶ[#「はぶ」に傍点]の造船所の前を船が通っている。社宅が海へ向って並んでいる。初めて嫁入りをして行った家が見える。もう、あの男には子供が沢山出来ているのだろうと、ひらひらした赤いものを眼にとめて、わたしはそんなことを考えていた。
造船所の岬《みさき》の陰には、あさなぎ、ゆうなぎと書いた二そうの銀灰色の軍艦が修理に這入っていた。白い仕事服の水兵たちがせっせと船を洗ってい
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