に退屈を感じませぬ。いまにホウホケキヨなんて鶯みたいに鳴き出すからつて、離れてゐる[#「離れてゐる」はママ]小学校の先生が憎まれ口をきくのですが、魚は鱗を見ただけでもぞつとする私には、まるでお伽話の世界です。
この谷間では、お百姓よりもお坊さんが大変威張つてゐます。
「先生とお坊さんとどつちが豪いの?」
村の子供に聞くと、坊さんの方が上だらうつて。それなのに、お坊さんは朝から晩まで村長さんとお酒を呑んでゐます。こゝの村長さんは大酒飲みで、馬の品評会でぶつたふれたといふ酒豪です。
この家の娘さんは私より一ツ上の十八ですが、もうこの月末には川下の曼陀羅寺へお嫁入りして行くのです。非常に髪の黒い瞳の涼しいひとで、蕎麦の花のやうに可憐な女です。離れの小学校の先生は、西洋占ひをつくつて、
「九月の花嫁は、美人で愛情あり、人に好かるべし、なれど縁薄くして末不幸なり。おい、おくにさん、まづもつて、九月の花嫁となるなかれだね」
何だか変におくにさんを厭がらせるのですが、おくにさんも、お寺のせゐかあまり気が進まないらしく、妙にぼんやりして可哀さうです。
こゝのお婆さんは、大勢な貴女のお家の台所をきりまはしてゐたひとだけに気丈夫でかんしやうなところが見えます。
「まあ、百合子嬢さまがもう十七になられて、いやもう十年もたちますかいなう、早いものですよ」
娘のお嫁入りも、半分はこのお婆さんがお嫁に行くやうな鼻息です。離れの先生は、ここのおくにさんが好きであつたのでせう、時々口笛なンぞを吹いておくにさんを呼んでゐます。
谷間の村は、鶏と兎を飼ふ家が多い。とても平和です。誰かが嚔をしてもよく聞えさうな静かな部落で、月の美しい夜なぞ山の落葉松林が銀の波のやうです。
お婆さんも是非貴女をお呼びしたいと言つてゐました。こゝはお婆さんに、お婆さんの息子夫婦、それに嫁入りして行く娘さんと、その弟と、学校の先生と、私と、呑気な家庭です。
いらつしやいませんか。
お兄様たちによろしく。又――。
[#地から2字上げ]谷間から かづ子
百合江様
第三信
Merci bien !
まあ、私胸がとてもドキドキして、一寸の間夢ぢやないかと思ひました。勇兄さんのお描きなつた海の風景と、チヨコレートにボンボン、コテイのオークルジヨン、雑誌が二冊、とても私の嬉しさ楽しさ、空想してみて下さい。
もういちど、メルシ・ビヤン! やつぱり都会の虫は仕様がありません。ボンボンをひとつ口にはふりこんだら、ボンボンのやうな涙がこぼれました。こゝの人達にもお菓子をわけましたが、先生の外は、みんな苦味いと言つてよろこびませんでした。
海の風景は、私のお部屋に、小学校の先生は、勇兄さまの絵を見て、もう三十を過ぎた方なのに、これから絵を勉強に東京へ出ようかしらと言つてゐました。
娘さんはせつせと古風なお嫁入りの着物を縫つてゐます。そのそばで弟の方が、誰かに手紙でも書いてゐたのでせう。
「おまへは勉強させてもらつて幸福だでなア、姉ちやアは、着物ばかし縫つて、手紙ひとつ書けねどもさ」
弟の方は沈黙つて鉛筆を嘗めてゐました。
姉娘の方は、水つぽい眼をしてぼんやり何か一人ごと言つては針を動かしてゐます。忘れられたやうなこの谷間の風景の中にも、此様な悲しい汚点があるのです。
シネマなンぞはなほさらのこと、一年に一度か二度の村芝居もみかねる人達が多いのです。だから、勿論、村のうちは、現金なんてはめつたに持つて歩く人はなくて、卵と石油と交換したり、塩鮭と蕎麦粉とかへたり、淋しい村です。
そのうち、写真でもとつて送りませう。
くれ/″\も皆様によろしく、私の体はとても元気、少し太つたと家の人達が言ひます。
此間も、家の人達と一緒に眼を覚ましたので、朝の御飯が済むと、涼しい落葉松林の中へ散歩して、一人で自分の影を見ながら汗ばむほど踊つてみました。
やつぱり、東京へ帰つて舞台へ立つてみたい気持です。エマ子さんや、滝子さん、雅子さんなんぞ、みンな上達なすつた事でありませう。私一人で残された者みたいで淋しい気もします。朝の落葉松林は無人境です。一人で自分の影と踊つてゐるかづ子を考へてみて下さい。
私、早く病気をなほさうと思つてゐます。
勇兄さまにもお会ひしたい、いつもお手紙が電報のやうに短いので、本当はとても淋しいンです。恨みつぽい事を言つて済みません。チヨコレートは楽しみに長く食べませう。
よろしく。
[#地から2字上げ]かづ子より
百合江さま
第四信
口髭のこと、いまごろ勇兄さんから、何と愛すべき髭のかづ子よつて来ました。だから私お返事をあげたのです。
口髭のある私に、思ひをかけてくれた兵隊さんの顔が忘れられませんつて。その兵隊さんは、一寸勇兄さんに似てゐま
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